いおいて別れてきた。それに、あの女と交した約束も果さないで、今さら逢いに行かれるものでない。そうはいうものの、いつもの癖か、足はおのずと柳島の方角へ向いていた。が、気がつくと、弾《はじ》かれるように方向を転じて、わざと向島の土手へ出た。それから渡船《とせん》を待ち合せて、待乳山《まつちやま》の下へ渡った時は、もう日もとっぷりと暮れていた。彼は先を争って上る合客の後から、のっそり船着場を上って行きながら、何のためにこうして雪の降る中を宛もなしに歩いているのか、自分でもよく分らなかった。
「そうだ」と、彼は河岸《かし》の上に立って、真黒な水の面《おもて》を見返りながら考えた。「俺はまだ死ぬ覚悟がついていないのだ! ついていなければこそ、こうして亡者のようにふらふら歩き廻っているのだ。だが、死ぬ覚悟をするために、俺はどれだけ苦しんできたろう? なるほど、俺は命が惜しい! 生れついての卑怯者かもしれない。だが、命が惜しいからといって、俺はまだ一度も命を助かろうとしてもがいた覚えはない。ただどうしたら命が捨てられるか、安んじて死んで行かれるかと、ただそればかりを今日まで力《つと》めてきた。それがためには、俺はかわいい女房をも殺そうとした。兄に大事を打明けたのも、じつはそのためだ。それでいながら、俺にはまだ死ぬ覚悟がつかない――この期《ご》に及んで、この土壇場《どたんば》に莅《のぞ》んで! 俺はいったいどうしたらいいのだ?」
どうしたらいいかは、彼にももちろん分ろうはずがなかった。彼はまたふらふらと歩きだした。
「ほかの連中は皆命を軽石ほどにも思っていないらしい。俺はどうしたらこの未練らしい執着《しゅうじゃく》の根を絶って、ああいう風になれるのだ?」
そう思いながら、彼はさすがに人通りの罕《ま》れな日本堤の上を歩いていた。後から「ほい、ほいッ!」と威勢のいい懸声をしながら、桐油《とうゆ》をかけた四つ手籠が一丁そばを摺《す》り抜けて行く。吉原の情婦《おんな》にでも逢いに行く嫖客《きゃく》を乗せて行くものらしい。が、彼はそんなことにも気がつかなかった。賑《にぎ》やかな廓《くるわ》の灯《ひ》を横目に見ながら、そのまま暗い土手の上を歩きつづけた。そして、だんだん歩いているうちに、とうとう坂本から上野の山下へ出てしまった。
山下へ出た時は、手も足も寒さに凍《こご》えて千断《ちぎ》れ
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