金子を払うと云うことは金輪際なかった。
 何人もかつて往来で彼を呼び留めて、嬉しそうな顔つきをして、「スクルージさん、御機嫌はいかがですか。何日私の許へ会いに来て下さいます?」なぞと訊く者はなかった。乞食も彼に一文遣って下さいと縋ったことがなく、子供達も今いつです? と彼に訊いたことがなかった。男でも女でも、彼の生れてから未だ一度も、こうこういうところへはどう行きますかと、スクルージに道筋を訊ねた者はなかった。盲人の畜犬ですら、彼を知っているらしく、彼がやって来るのを見ると、その飼主を戸口の中や路地の奥へ引っ張り込んだものだ。そして、それから「丸っ切り眼のないものはまだしも悪の眼を持っているより優《ま》しですよ、盲人の旦那」とでも云うように、その尾を振ったものだ。
 だが、何をそんな事スクルージが気に懸けようぞ! それこそ彼の望むところであった。人情なぞは皆遠くに退いておれと警告しながら、人生の人ごみの道筋を押し分けて進んで行くことが、スクルージに取っては通人の所謂『大好物』であった。
 ある時――日もあろうに、聖降誕祭の前夜に――老スクルージは事務所に坐っていそがしそうにしていた。寒い、霜枯れた、噛みつくような日であった。おまけに霧も多かった。彼は戸外の路地で人々がふうふう息を吐いたり、胸に手を叩きつけたり、煖くなるようにと思って敷石に足をばたばた踏みつけたりしながら、あちらこちらと往来しているのを耳にした。街の時計は方々で今し方三時を打ったばかりだのに、もうすっかり暗くなっていた。――もっとも終日明るくはなかったのだ。――隣近所の事務所の窓の中では、手にも触れられそうな鳶色をした空気の中に、赤い汚点の様に、蝋燭がはたはたと揺れながら燃えていた。霧はどんな隙間からも、鍵穴からも流れ込んで来た。そして、この路地はごくごく狭い方だのに、向う側の家並はただぼんやり幻影の様に見えたほど、戸外は霧が濃密であった。どんよりした雲が垂れ下がって来て、何から何まで蔽い隠して行くのを見ると、自然がつい近所に住んでいて、素敵もない大きな烟の雲を吐き出しているんだと考える人があるかも知れない。
 スクルージの事務所の戸は、大桶のような、向うの陰気な小部屋で、沢山の手紙を写している書記を見張るために開け放しになっていた。スクルージはほんのちっとばかりの火を持っていた。が、書記の火はもっと
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