追剥ぎはさのみに恐れなかったが、犬に吠え付かれるには困った。あるときには五、六匹の大きい犬に取りまかれて、実に弱り切ったことがあった。そういう難儀も廉価の芝居見物には代えられないので、わたしは約四年間を根《こん》よく通いつづけた。その頃の大劇場は、一年に五、六回か三、四回しか開場しないのに、春木座だけは毎月必ず開場したので、わたしは四年間にずいぶん数多くの芝居を見物することが出来た。
三崎町三丁目は明治二十二、三年頃からだんだんに開けて来たが、それでも、かの小僧殺しのような事件は絶えなかった。二十四年六月には三崎座《みさきざ》が出来た。殊に二十五年一月の神田の大火以来、俄《にわ》かにここらが繁昌して、またたくうちに立派な町になってしまったのである。その当時は、むかしの草原を知っている人もあったろうが、それから三十幾年を経過した今日では、現在その土地に住んでいる人たちでも、昔の草原の茫漠《ぼうばく》たる光景をよく知っている者は少ないかも知れない。武蔵野《むさしの》の原に大江戸の町が開かれたことを思えば、このくらいの変遷は何でも無いことかも知れないが、目前《もくぜん》にその変遷をよく知っている私たちに取っては、一種の感慨がないでもない。殊にわたしなどは、かの春木座がよいの思い出があるので、その感慨がいっそう深い。あの当時、ここらがこんなに開けていたらば、わたしはどんなに楽であったか。まして電車などがあったらば、どんなに助かったか。
暗い原中をたどってゆく少年の姿――それがまぼろしのようにわたしの眼に浮かんだ。[#地付き](昭和2・1「不同調」)
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御堀端三題
一 柳のかげ
海に山に、涼風に浴した思い出もいろいろあるが、最も忘れ得ないのは少年時代の思い出である。今日《こんにち》の人はもちろん知るまいが、麹町の桜田門《さくらだもん》外、地方裁判所の横手、のちに府立第一中学の正門前になった所に、五、六株の大きい柳が繁っていた。
堀端《ほりばた》の柳は半蔵門《はんぞうもん》から日比谷《ひびや》まで続いているが、此処《ここ》の柳はその反対の側に立っているのである。どういう訳でこれだけの柳が路ばたに取り残されていたのか知らないが、往来のまん中よりもやや南寄りに青い蔭を作っていた。その当時の堀端はすこぶる狭く、路幅はほとんど今日の三分の一にも過ぎなかったであろう。その狭い往来に五、六株の大樹が繁っているのであるから、邪魔といえば邪魔であるが、電車も自動車もない時代にはさのみの邪魔とも思われないばかりか、長い堀端を徒歩する人々にとっては、その地帯が一種のオアシスとなっていたのである。
冬はともあれ、夏の日盛りになると、往来の人々はこの柳のかげに立ち寄って、大抵はひと休みをする。片肌ぬいで汗を拭いている男もある。蝙蝠傘《こうもりがさ》を杖《つえ》にして小さい扇を使っている女もある。それらの人々を当て込みに甘酒屋が荷をおろしている。小さい氷屋の車屋台《くるまやたい》が出ている。今日ではまったく見られない堀端の一風景であった。
それにつづく日比谷公園は長州《ちょうしゅう》屋敷の跡で、俗に長州ヶ原と呼ばれ、一面の広い草原となって取り残されていた。三宅坂《みやけざか》の方面から参謀本部の下に沿って流れ落ちる大溝《おおどぶ》は、裁判所の横手から長州ヶ原の外部に続いていて、むかしは河獺《かわうそ》が出るとか云われたそうであるが、その古い溝の石垣のあいだから鰻《うなぎ》が釣れるので、うなぎ屋の印半纏を着た男が小さい岡持《おかもち》をたずさえて穴釣りをしているのをしばしば見受けた。その穴釣りの鰻屋も、この柳のかげに寄って来て甘酒などを飲んでいることもあった。岡持にはかなり大きい鰻が四、五本ぐらい蜿《のた》くっているのを、私は見た。
そのほかには一種の軽子《かるこ》、いわゆる立ちン[#「ン」は小書き]坊も四、五人ぐらいは常に集まっていた。下町から麹町四谷方面の山の手へ登るには、ここらから道路が爪先あがりになる。殊に眼の前には三宅坂がある。この坂も今よりは嶮《けわ》しかった。そこで、下町から重い荷車を挽《ひ》いて来た者は、ここから後押《あとお》しを頼むことになる。立ちン[#「ン」は小書き]坊はその後押しを目あてに稼ぎに出ているのであるが、距離の遠近によって二銭三銭、あるいは四銭五銭、それを一日に数回も往復するので、その当時の彼らとしては優に生活が出来たらしい。その立ちン[#「ン」は小書き]坊もここで氷水を飲み、あま酒を飲んでいた。
立ちン[#「ン」は小書き]坊といっても、毎日おなじ顔が出ているのである。直ぐ傍《わき》には桜田門外の派出所もある。したがって、彼らは他の人々に対して、無作法や不穏の言動を試みることはない。ここに休んでいる人々を相手に、いつも愉快に談笑しているのである。私もこの立ちン[#「ン」は小書き]坊君を相手にして、しばしば語ったことがある。
私が最も多くこの柳の蔭に休息して、堀端の涼風の恩恵にあずかったのは、明治二十年から二十二年の頃、すなわち私の十六歳から十八歳に至る頃であった。その当時、府立の一中は築地の河岸、今日の東京劇場所在地に移っていたので、麹町に住んでいる私は毎日この堀端を往来しなければならなかった。朝は登校を急ぐのと、まだそれ程に暑くもないので、この柳を横眼に見るだけで通り過ぎたが、帰り道は午後の日盛りになるので、築地から銀座を横ぎり、数寄屋橋見附《すきやばしみつけ》をはいって有楽町《ゆうらくちょう》を通り抜けて来ると、ここらが丁度休み場所である。
日蔭のない堀端の一本道を通って、例のうなぎ釣りなぞを覗《のぞ》きながら、この柳の下にたどり着くと、そこにはいつでも三、四人、多い時には七、八人が休んでいる。立ちン[#「ン」は小書き]坊もまじっている。氷水も甘酒も一杯八|厘《りん》、その一杯が実に甘露の味であった。
長い往来は強い日に白く光っている。堀端の柳には蝉《せみ》の声がきこえる。重い革包《カバン》を柳の下枝にかけて、帽子をぬいで、洋服のボタンをはずして、額の汗をふきながら一杯八厘の甘露をすすっている時、どこから吹いて来るのか知らないが、一陣の涼風が青い影をゆるがして颯《さっ》と通る。まったく文字通りに、涼味骨に透るのであった。
「涼しいなあ。」と、私たちは思わず声をあげて喜んだ。時には跳《おど》りあがって喜んで、周囲の人々に笑われた。私たちばかりでなく、この柳のかげに立ち寄って、この涼風に救われた人々は、毎日何十人、あるいは何百人の多きにのぼったであろう。幾人の立ちン[#「ン」は小書き]坊もここを稼ぎ場とし、氷屋も甘酒屋もここで一日の生計を立てていたのである。いかに鬱蒼《うっそう》というべき大樹であっても、わずかに五株か六株の柳の蔭がこれほどの功徳《くどく》を施していようとは、交通機関の発達した現代の東京人には思いも及ばぬことであるに相違ない。その昔の江戸時代には、ほかにもこういうオアシスがたくさん見いだされたのであろう。
少年時代を通り過ぎて、わたしは銀座《ぎんざ》辺の新聞社に勤めるようになっても、やはり此の堀端を毎日往復した。しかも日が暮れてから帰宅するので、この柳のかげに休息して涼風に浴するの機会がなく、年ごとに繁ってゆく青い蔭をながめて、昔年《せきねん》の涼味を偲《しの》ぶに過ぎなかったが、わが国に帝国議会というものが初めて開かれても、ここの柳は伐られなかった。日清戦争が始まっても、ここの柳は伐られなかった。人は昔と違っているであろうが、氷屋や甘酒屋の店も依然として出ていた。立ちン[#「ン」は小書き]坊も立っていた。
その懐かしい少年時代の夢を破る時が遂に来たった。かの長州ヶ原がいよいよ日比谷公園と改名する時代が近づいて、まず其の周囲の整理が行なわれることになった。鰻の釣れる溝《どぶ》の石垣が先ず破壊された。つづいてかの柳の大樹が次から次へと伐り倒された。それは明治三十四年の秋である。涼しい風が薄寒い秋風に変って、ここの柳の葉もそろそろ散り始める頃、むざんの斧《おの》や鋸《のこ》がこの古木に祟《たた》って、浄瑠璃《じょうるり》に聞き慣れている「丗三間堂棟由来《さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい》」の悲劇をここに演出した。立ちン[#「ン」は小書き]坊もどこへか巣を換えた。氷屋も甘酒屋も影をかくした。
それから三年目の夏に日比谷公園は開かれた。その冬には半蔵門から数寄屋橋に至る市内電車が開通して、ここらの光景は一変した。その後幾たびの変遷を経て、今日は昔に三倍するの大道となった。街路樹も見ごとに植えられた。昔の涼風は今もその街路樹の梢におとずれているのであろうが、私に涼味を思い起させるのは、やはり昔の柳の風である。[#地付き](昭和12・8「文藝春秋」)
二 怪談
お堀端の夜歩きについて、ここに一種の怪談をかく。但し本当の怪談ではないらしい。いや、本当でないに決まっている。
わたしが二十歳《はたち》の九月はじめである。夜の九時ごろに銀座から麹町の自宅へ帰る途中、日比谷の堀端にさしかかった。その頃は日比谷にも昔の見附《みつけ》の跡があって、今日の公園は一面の草原であった。電車などはもちろん往来していない時代であるから、このあたりに灯の影の見えるのは桜田門外の派出所だけで、他は真っ暗である。夜に入っては往来も少ない。ときどきに人力車の提灯が人魂《ひとだま》のように飛んで行くくらいである。
しかも其の時は二百十日前後の天候不穏、風まじりの細雨《こさめ》の飛ぶ暗い夜であるから、午後七、八時を過ぎるとほとんど人通りがない。わたしは重い雨傘をかたむけて、有楽町から日比谷見附を過ぎて堀端へ来かかると、俄《にわ》かにうしろから足音が聞えた。足駄《あしだ》の音ではなく、草履《ぞうり》か草鞋《わらじ》であるらしい。その頃は草鞋もめずらしくないので、わたしも別に気に留めなかったが、それが余りに私のうしろに接近して来るので、わたしは何ごころなく振り返ると、直ぐうしろから一人の女があるいて来る。
傘を傾けているので、女の顔は見えないが、白地に桔梗《ききょう》を染め出した中形《ちゅうがた》の単衣《ひとえもの》を着ているのが暗いなかにもはっきりと見えたので、私は実にぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。右にも左にも灯のひかりの無い堀端で、女の着物の染め模様などが判ろう筈がない。幽霊か妖怪か、いずれ唯者《ただもの》ではあるまいと私は思った。暗い中で姿の見えるものは妖怪であるという古来の伝説が、わたしを強くおびやかしたのである。
まさかにきゃっ[#「きゃっ」に傍点]と叫んで逃げる程でもなかったが、わたしは再び振り返る勇気もなく、ただ真っ直ぐに足を早めてゆくと、女もわたしを追うように付いて来る。女の癖になかなか足がはやい。そうなると、私はいよいよ気味が悪くなった。江戸時代には三宅坂下の堀に河獺《かわうそ》が棲んでいて、往来の人を嚇《おど》したなどという伝説がある。そんなことも今更に思い出されて、わたしはひどく臆病になった。
この場合、唯一《ゆいいつ》の救いは桜田門外の派出所である。そこまで行き着けば灯の光があるから、私のあとを付けて来る怪しい女の正体も、ありありと照らし出されるに相違ない。私はいよいよ急いで派出所の前までたどり着いた。ここで大胆に再び振り返ると、女の顔は傘にかくされてやはり見えないが、その着物は確かに白地で、桔梗の中形にも見誤まりはなかった。彼女は痩形《やせがた》の若い女であるらしかった。
正体は見届けたが、不安はまだ消えない。私は黙って歩き出すと、女はやはり付いて来た。わたしは気味の悪い道連れ(?)をうしろに背負いながら、とうとう三宅坂下までたどり着いたが、女は河獺にもならなかった。坂上の道はふた筋に分かれて、隼町《はやぶさちょう》の大通りと半蔵門方面とに通じている。今夜の私は、灯の多い隼町の方角へ、女は半蔵門の方角へ、ここで初めて分かれわかれ
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