ら、級の数はひどく多いが、初等科と中等科をやはり六年間で終了するわけで、そのほかに毎月一回の小試験があった。小試験の成績に因って、その都度に席順が変るのであるが、それは其の月限りのもので、定期試験にはなんの影響もなく、優等賞も及第も落第もすべて定期試験の点数だけによって定まるのであった。免状授与式の日は勿論であるが、定期試験の当日も盛装して出るのが習いで、わたしなども一張羅《いっちょうら》の紋付の羽織を着て、よそ行きの袴をはいて行った。それは試験というものを一種の神聖なるものと認めていたらしい。女の子はその朝に髪を結い、男の子もその前日あるいは二、三日前に髪を刈った。校長や先生は勿論、小使《こづかい》に至るまでも髪を刈り、髭《ひげ》を剃《そ》って、試験中は服装を改《あらた》めていた。
授業時間や冬季夏季の休暇は、今日《こんにち》と大差はなかった。授業の時間割も先ず一定していたが、その教授の仕方は受持教師の思い思いと云った風で、習字の好きな教師は習字の時間を多くし、読書の好きな教師は読書の時間を多くすると云うような傾きもあった。教え方は大体に厳重で、怠ける生徒や不成績の生徒はあたまから叱り付けられた。時には竹の教鞭《きょうべん》で背中を引っぱたかれた。癇癪《かんしゃく》持ちの教師は平手で横っ面をぴしゃり[#「ぴしゃり」に傍点]と食らわすのもあった。わたしなども授業中に隣席の生徒とおしゃべりをして、教鞭の刑をうけたことも再三あった。
今日ならば、生徒|虐待《ぎゃくたい》とか云って忽《たちま》ちに問題をひき起すのであろうが、寺子屋の遺風の去らない其の当時にあっては、師匠が弟子を仕込む上に於《お》いて、そのくらいの仕置きを加えるのは当然であると見なされていたので、別に怪しむものも無かった。勿論、怖い先生もあり、優しい先生もあったのであるが、そういうわけであるから怖い先生は生徒間に甚《はなは》だ恐れられた。
生徒に加える刑罰は、叱ったり殴ったりするばかりでなかった。授業中に騒いだり悪戯《いたずら》をしたりする者は、席から引き出して教壇のうしろに立たされた。さすがに線香を持たせたり水を持たせたりはしなかったが、寺子屋の芝居に見る涎《よだれ》くりを其の儘の姿であった。更に手重いのになると、教授用の大きい算露盤《そろばん》を背負わせて、教師が附き添って各級の教場を一巡し、この子はかくかくの不都合を働いたものであると触れてあるくのである。所詮《しょせん》はむかしの引廻しの格で、他に対する一種の見せしめであろうが、ずいぶん思い切って残酷な刑罰を加えたものである。
もっとも、今とむかしとを比べると、今日の児童は皆おとなしい。私たちの眼から観ると、おとなしいのを通り越して弱々しいと思われるようなのが多い。それに反して、むかしの児童はみな頑強で乱暴である。また、その中でも所謂《いわゆる》いたずらッ児というものになると、どうにもこうにも手に負えないのがある。父兄が叱ろうが、教師が説諭しようが、なんの利き目もないという持て余し者がずいぶん見いだされた。
学校でも始末に困って退学を命じると、父兄が泣いてあやまって来るから、再び通学を許すことにする。しかも本人は一向平気で、授業中に騒ぐのは勿論、運動時間にはさんざんに暴れまわって、椅子をぶち毀す、窓硝子を割る、他の生徒を泣かせる、甚だしいのは運動場から石や瓦を投げ出して往来の人を脅《おど》すというのであるから、とても尋常一様の懲戒法では彼らを矯正する見込みはない。したがって、教師の側でも非常手段として、引廻し其の他の厳刑を案出したのかも知れない。
教師はみな羽織袴または洋服であったが、生徒の服装はまちまちであった。勿論、制帽などは無かったから、思い思いの帽子をかぶったのであるが、帽子をかぶらない生徒が七割であって、大抵は炎天にも頭を晒《さら》してあるいていた。袴をはいている者も少なかった。商家の子どもは前垂れをかけているのもあった。その当時の風習として、筒袖をきるのは裏店《うらだな》の子に限っていたので、男の子も女の子とおなじように、八つ口のあいた袂をつけていて、その袂は女の子に比べてやや短いぐらいの程度であったから、ふざけるたびに袂をつかまれるので、八つ口からほころびる事がしばしばあるので困った。これは今日の筒袖の方が軽快で便利である。屋敷の子は兵児帯《へこおび》をしめていたが、商家の子は大抵|角帯《かくおび》をしめていた。
靴は勿論すくない、みな草履であったが、強い雨や雪の日には、尻を端折《はしょ》り、あるいは袴の股立《ももだ》ちを取って、はだしで通学する者も随分あった。学校でもそれを咎《とが》めなかった。
運動場はどこの小学校も狭かった。教室の建物がすでに狭く、それに準じて運動場も狭かった。平河小学校などは比較的に広い方であったが、往来に面したところに低い堤《どて》を作って、大きい樫《かし》の木を栽えつらねてあるだけで、ほかにはなんらの設備もなかった。片隅にブランコが二つ設けてあったが、いっこうに地ならしがしてないので、雨あがりなどには其処《そこ》らは一面の水溜りになってしまって、ブランコの傍《そば》などへはとても寄り付くことは出来なかった。勿論、アスファルトや砂利が敷いてあるでもないから、雨あがりばかりでなく、冬は雪どけや霜どけで路《みち》が悪い。そこで転んだり起《た》ったりするのであるから、着物や袴は毎日泥だらけになるので、わたしなどは家で着る物と学校へ着てゆく物とが区別されていて、学校から帰るとすぐに着物を着かえさせられた。
運動時間は一時間ごとに十分間、午《ひる》の食後に三十分間であったが、別に一定の遊戯というものも無いから、男の子は縄飛び、相撲、鬼ごっこ、軍《いくさ》ごっこなどをする。女の子も鬼ごっこをするか、鞠《まり》をついたりする。男の子のあそびには相撲が最も行なわれた。そのころの小学校では体操を教えなかったから、生徒の運動といえば唯むやみに暴《あば》れるだけであった。したがって今日のようなおとなしい子供も出来なかったわけであろう。その頃には唱歌も教えなかった。運動会や遠足会もなかった。
もし運動会に似たようなものを求むれば、土曜日の午後や日曜日に大勢《おおぜい》が隊を組んで、他の学校へ喧嘩《けんか》にゆくことである。相手の学校でも隊を組んで出て来る。その頃は所々に屋敷あとの広い草原などがあったから、そこで石を投げ合ったり、棒切れで叩き合ったりする。中には自分の家から親父《おやじ》の脇差《わきざし》を持ち出して来るような乱暴者もあった。時には往来なかで闘う事もあったが、巡査も別に咎めなかった。学校では喧嘩をしてはならぬと云うことになっていたが、それも表向きだけのことで、若い教師のうちには他の学校に負けるなと云って、内々で種々の軍略を授けてくれるのもあった。それらの事をかんがえると、くどくも云うようであるが、今日の子供たちは実におとなしい。
その当時は別に保護者会とか父兄会とかいうものも無かったが、むかしの寺子屋の遺風が存していたとみえて、教師と父兄との関係はすこぶる親密であった。父兄や姉も学校に教師をたずねて、子弟のことをいろいろ頼むことがある。教師も学校の帰途に生徒の家をたずねて、父兄にいろいろの注意をあたえることもある。したがって、学校と家庭の連絡は案外によく結び付けられているようであった。その代りに、学校で悪いことをすると、すぐに家へ知れるので、私たちは困った。[#地付き](昭和2・10「時事新報」)
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三崎町の原
十一月の下旬の晴れた日に、所用あって神田《かんだ》の三崎町《みさきちょう》まで出かけた。電車道に面した町はしばしば往来しているが、奥の方へは震災以後一度も踏み込んだことがなかったので、久し振りでぶらぶらあるいてみると、震災以前もここらは随分混雑しているところであったが、その以後は更に混雑して来た。区画整理が成就した暁には、町の形が又もや変ることであろう。
市内も開ける、郊外も開ける。その変化に今更おどろくのは甚だ迂闊《うかつ》であるが、わたしは今、三崎町三丁目の混雑の巷《ちまた》に立って、自動車やトラックに脅《おびや》かされてうろうろ[#「うろうろ」に傍点]しながら、周囲の情景のあまりに変化したのに驚かされずにはいられなかった。いわゆる隔世《かくせい》の感というのは、全くこの時の心持であった。
三崎町一、二丁目は早く開けていたが、三丁目は旧幕府の講武所、大名屋敷、旗本屋敷の跡で、明治の初年から陸軍の練兵場となっていた。それは一面の広い草原で、練兵中は通行を禁止されることもあったが、朝夕または日曜祭日には自由に通行を許された。しかも草刈りが十分に行き届かなかったとみえて、夏から秋にかけては高い草むらが到るところに見いだされた。北は水道橋に沿うた高い堤《どて》で、大樹が生い茂っていた。その堤の松には首縊《くびくく》りの松などという忌《いや》な名の付いていたのもあった。野犬が巣を作っていて、しばしば往来の人を咬《か》んだ。追剥《おいは》ぎも出た。明治二十四年二月、富士見町《ふじみちょう》の玉子屋の小僧が懸け取りに行った帰りに、ここで二人の賊に絞め殺された事件などは、新聞の三面記事として有名であった。
わたしは明治十八年から二十一年に至る四年間、すなわち私が十四歳から十七歳に至るあいだ、毎月一度ずつはほとんど欠かさずに、この練兵場を通り抜けなければならなかった。その当時はもう練兵をやめてしまって、三菱に払い下げられたように聞いていたが、三菱の方でも直ぐにはそれを開こうともしないで、唯そのままの草原にして置いたので、普通にそれを三崎町の原と呼んでいた。わたしが毎月一度ずつ必ずその原を通り抜けたのは、本郷《ほんごう》の春木座《はるきざ》へゆくためであった。
春木座は今日《こんにち》の本郷座である。十八年の五月から大阪の鳥熊《とりくま》という男が、大阪から中通《ちゅうどお》りの腕達者な俳優一座を連れて来て、値安興行をはじめた。土間は全部開放して大入り場として、入場料は六銭というのである。しかも半札《はんふだ》を呉れるので、来月はその半札に三銭を添えて出せばいいのであるから、要するに金九銭を以って二度の芝居が観られるというわけである。ともかくも春木座はいわゆる檜《ひのき》舞台の大劇場であるのに、それが二回九銭で見物できるというのであるから、確かに廉《やす》いに相違ない。それが大評判となって、毎月爪も立たないような大入りを占めた。
芝居狂の一少年がそれを見逃す筈がない。わたしは月初めの日曜毎に春木座へ通うことを怠《おこた》らなかったのである。ただ、困ることは開場が午前七時というのである。なにしろ非常の大入りである上に、日曜日などは殊に混雑するので、午前四時か遅くも五時頃までには劇場の前にゆき着いて、その開場を待っていなければならない。麹町の元園町から徒歩で本郷まで行くのであるから、午前三時頃から家を出てゆく覚悟でなければならない。わたしは午前二時頃に起きて、ゆうべの残りの冷飯を食って、腰弁当をたずさえて、小倉の袴の股立ちを取って、朴歯《ほおば》の下駄をはいて、本郷までゆく途中、どうしても、かの三崎町の原を通り抜けなければならない事になる。勿諭、須田町《すだちょう》の方から廻ってゆく道がないでもないが、それでは非常の迂廻《うかい》であるから、どうしても九段下《くだんした》から三崎町の原をよぎって水道橋へ出ることになる。
その原は前にいう通りの次第であるから、午前四時五時の頃に人通りなどのあろう筈はない。そこは真っ暗な草原で、野犬の巣窟《そうくつ》、追剥ぎの稼ぎ場である。闇の奥で犬の声がきこえる。狐の声もきこえる。雨のふる時には容赦なく吹っかける。冬のあけ方には霜を吹く風が氷のように冷たい。その原をようように行き抜けて水道橋へ出ても、お茶の水の堤ぎわはやはり真っ暗で、人通りはない。幾らの小遣い銭を持っているでもないから、
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