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目黒には寺々あれど鐘鳴らず
   鐘は鳴らねど秋の日暮るる
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 前にいった瀧泉寺門前の料理屋|角伊勢《かどいせ》の庭内に、例の権八《ごんぱち》小紫《こむらさき》の比翼塚《ひよくづか》が残っていることは、江戸以来あまりにも有名である。近頃はここに花柳界も新しく開けたので、比翼塚に線香を供える者がますます多くなったらしい。さびしい目黒村の古塚の下に、久しく眠っていた恋人らの魂も、このごろの新市内の繁昌には少しく驚かされているかも知れない。
 正覚寺にある政岡の墓地には、比翼塚ほどの参詣人を見ないようであるが、近年その寺内に裲襠《うちかけ》姿の大きい銅像が建立《こんりゅう》されて、人の注意を惹くようになった。云うまでもなく、政岡というのは芝居の仮名《かめい》で、本名は三沢初子である。初子の墓は仙台にもあるが、ここが本当の墳墓であるという。いずれにしても、小紫といい、政岡といい、芝居で有名の女たちの墓地が、さのみ遠からざる所に列んでいるのも、私にはなつかしく思われた。

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草青み目黒は政岡小むらさき
   芝居の女のおくつき所
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 寺を語れば、行人坂《ぎょうにんざか》の大円寺をも語らなければならない。行人坂は下目黒にあって、寛永《かんえい》の頃、ここに湯殿山《ゆどのさん》行人派の寺が開かれた為に、坂の名を行人と呼ぶことになったという。そんな考証はしばらく措《お》いて、目黒行人坂の名が江戸人にあまねく知られるようになったのは、明和《めいわ》年間の大火、いわゆる行人坂の火事以来である。
 行人坂の大円寺に、通称|長五郎《ちょうごろう》坊主という悪僧があった。彼は放蕩破戒《ほうとうはかい》のために、住職や檀家に憎まれたのを恨んで、明和九年二月二十八日の正午頃、わが住む寺に放火した。折りから西南の風が強かったので、その火は白金《しろかね》、麻布《あざぶ》方面から江戸へ燃えひろがり、下町全部と丸《まる》の内《うち》を焼いた。江戸開府以来の大火は、明暦《めいれき》の振袖火事と明和の行人坂火事で、相撲《すもう》でいえば両横綱の格であるから、行人坂の名が江戸人の頭脳に深く刻み込まれたのも無理はなかった。
 そういう歴史も現代の東京人に忘れられて、坂の名のみが昔ながらに残っている。

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かぐつちは目黒の寺に祟《たた》りして
   長五郎坊主江戸を焼きけり
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 瀧泉寺には比翼塚以外に有名の墓があるが、これは比較的に知られていない。遊女の艶話《つやばなし》は一般に喧伝《けんでん》され易く、学者の功績はとかく忘却され易いのも、世の習いであろう。それはいわゆる甘藷《かんしょ》先生の青木昆陽《あおきこんよう》の墓である。もっとも、境内の丘上と丘下に二つの碑が建てられていて、その一は明治三十五年中に、芝・麻布・赤坂三区内の焼芋商らが建立したもの、他は明治四十四年中に、都下の名士、学者、甘藷商らによって建立されたものである。
 こういうわけで、甘藷先生が薩摩芋移植の功労者であることは、学者や一部の人々のあいだには長く記憶されているが、一般の人はなんにも知らず、不動参詣の女たちも全く無頓着で通り過ぎてしまうのは、残念であると云わなければなるまい。

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芋食ひの美少女《うましおとめ》ら知るや如何《いか》に
   目黒に甘藷先生の墓
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[#地付き](昭和13・10「短歌研究」)

     燈籠流し

 病後静養のために箱根に転地、強羅《ごうら》の一福《いちふく》旅館に滞在。七月下旬のある日、散歩ながら強羅停車場へ出てゆくと三十一日午後七時から蘆《あし》の湖《こ》で燈籠《とうろう》流しを催すという掲示があって、雨天順延と註されていた。
 けさの諸新聞の神奈川《かながわ》版にも同様の記事が掲げられていたのを、私は思い出した。宿へ帰って訊《き》いてみると、蘆の湖の燈籠流しは年々の行事で、八月一日は箱根神社の大祭、その宵宮《よみや》に催されるものであるという。
 さらに案内記を調べると、今より一千一百余年前の天平勝宝《てんぴょうしょうほう》年間に満巻上人という高僧が箱根権現の社《やしろ》に留《とど》まっていた。湖水の西の淵《ふち》には九つの頭を有する悪龍が棲んでいて、土地の少女を其の生贄《いけにえ》として取り啖《くら》っていたが、満巻上人の神呪《しんじゅ》によってさすがの悪龍も永く蟄伏《ちっぷく》し、少女の生贄に代えて赤飯《せきはん》を供えることになった。それが一種の神事となって今も廃《すた》れず、大祭当日には赤飯を入れた白木の唐櫃《からびつ》を舟にのせて湖心に漕ぎ出で、神官が祝詞《のりと》を唱えてそれを水中に沈めるのを例とし、その前夜に燈籠流しを行なうことは前に云った通りである。
 流燈の由来はそれで判った。ともかくも一度は見て置こうかと思っていると、三十日の夜に額田六福《ぬかだろっぷく》が熱海から廻って来た。額田も私の話を聴かされて、あしたの晩は一緒に行こうという。しかも三十一日の当日は朝のうちに俄雨、午後は曇天で霧が深い。元箱根までわざわざ登って行って、雨天順延では困ると、二人はすこしく躊躇していたが、恐らく雨にはなるまいと土地の人たちが云うのに励まされて、七時頃から二人は自動車に乗って出た。
 箱根遊船会社が拓《ひら》いたという専用道路をのぼって行くと、一路平坦、殊に先刻から懸念していた山霧は次第に晴れて、陰暦五日の月があらわれたので、まず安心とよろこんでいると、湖尻《うみじり》に着いた頃から燈籠の光がちらちら見えはじめた。元箱根に行き着くと、町はなかなか賑わっている。大祭を当込みの露店商人が両側に店をならべて、土地の人々と遊覧の人々の往来しげく、山の上とは思えないような雑沓である。昔も相当に繁昌したのではあろうが、所詮《しょせん》は蕭条《しょうじょう》たる山上の孤駅、その繁昌は今日の十分の一にも及ばなかったに相違ない。
 満巻上人のむかしは勿論、曾我五郎の箱王丸《はこおうまる》が箱根権現に勤めていたのも遠い昔であるから、それらの時代の回顧はしばらく措《お》いて近世の江戸時代になっても、箱根の関守《せきもり》たちはどの程度の繁昌をこの夜に見出したであろうか。第一に湖畔の居住者が少ない。遊覧客も少ない。今日では流燈の数およそ一千箇と称せられているが、その燈籠の光も昔はさびしいものであったろうと察せられる。
 往来ばかりでなく、湖畔の旅館はみな満員である。私たちは車を降りて、空《す》いていそうな旅館にはいると、ここもやはり満員、広い食堂に椅子をならべて見物席にあててあるが、飲みながら観る者、食いながら観るもの、隅から隅まで押合うような混雑で、芸妓らもまじって騒いでいる。東宝映画の一行もここに陣取って、しきりに撮影の最中であった。
 燈籠は五色で、たなばたの色紙のようなもので貼られてある。それが大きい湖水の上に星のごとく乱れているのであるから、いかにも一種の壮観と云い得る。燈籠を流す舟のほかに、囃子の舟もまじっていて、太鼓の音が水にひびいて遠く近くきこえる。またそのあいだを幾艘の大きい遊覧船が満艦飾というように燈籠をかけつらね遊覧客を乗せて漕ぎ廻っている。まずは両国《りょうごく》の川開きともいうべき、華やかな夜の光景である。
 満巻上人に祈り伏せられた悪龍は、その後ふたたび姿をみせないが、九頭龍《くずりゅう》明神と呼ばれて、今も蘆の湖の神と仰がれている。大祭の前夜に行なわれる燈籠流しも、この九頭龍明神を祭るが為であるという。湖水の底に棲む龍神は、今夜の繁昌をいかに眺めているであろうか。神も恐らく今昔の感に堪《た》えないであろう。
 燈籠流しは九時半ごろに終った。今まで湖上を照らしていた沢山《たくさん》の燈籠の火が一つ消え、二つ消えて、水は次第に暗くなった。舟の囃子もやんで、いつの間にか月も隠れた。見物の人々もおいおいに散って、岸の灯かげも薄くなった。私は云い知れない寂寥をおぼえて、闇の色の深くなり行く湖上を暫く眺めていた。
 夜ふけに強羅まで戻るのも億劫《おっくう》であるので、私たちはここに一泊、ほかの座敷にはほとんど徹夜で騒いでいる客もあった。夜があけると、昨夜の流燈はことごとく片付けられて、湖上には全くその影を見せなかった。誰が拾って来たのか、燈籠の一つが食堂のテーブルの上に置かれてあったので、私は手に取って眺めていると、拭《ぬぐ》ったような湖面は俄かに暗くなって、例の驟雨《しゅうう》がさっと降り出して来た。その雨のなかを何処《どこ》かで日ぐらしが啼いていた。[#地付き](昭和13・10「文藝春秋」)



底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
   1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2004年1月11日修正
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