の歯一枚をめぐって、廻り燈籠のように私の頭のなかに閃《ひらめ》いて通った。
私はその歯を把《と》って海へ投げ込んだ時、あたかも二|尾《ひき》の大きい鱶《ふか》が蒼黒い背をあらわして、船を追うように近づいて来た。私の歯はこの魚腹に葬られるかと見ていると、鱶はこんな物を呑むべく余りに大きい口をあいて、厨《くりや》から投げあたえる食い残りの魚肉を猟《あさ》っていた。私の歯はそのまま千尋《ちひろ》の底へ沈んで行ったらしい。わたしはまだ暮れ切らない大洋の浪のうねりを眺めながら、暫くそこに立ち尽くしていた。
前の下歯と後の上歯と、いずれもそれが異郷の出来事であった為に、記憶に深く刻まれているのであろうが、こういう思い出はとかくにさびしい。残る下歯六枚については、余り多くの思い出を作りたくないものである。[#地付き](昭和12・7「報知新聞」)
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我が家の園芸
上目黒へ移ってから三年目の夏が来るので、彼岸《ひがん》過ぎから花壇の種蒔《たねま》きをはじめた。旧市外であるだけに、草花類の生育は悪くない。種をまいて相当の肥料をあたえて置けば、まず普通の花は咲くので、われわれのような素人でも苦労はないわけである。
そこで、毎年欲張って二十種ないし三十種の種をまいて、庭一面を藪《やぶ》のようにしているのであるが、それでは藪蚊の棲み家を作るおそれがあるので、今年はあまり多くを蒔かないことにした。それでも糸瓜《へちま》と百日草だけは必ず栽えようと思っている。
わたしは昔の人間であるせいか、西洋種の草花はあまり好まない。チューリップ、カンナ、ダリアのたぐいも多少は栽えるが、それに広い地面を分譲しようとは思わない。日本の草花でも優しげな、なよなよ[#「なよなよ」に傍点]したものは面白くない。桔梗《ききょう》や女郎花《おみなえし》のたぐいは余り愛らしくない。わたしの最も愛するのは、糸瓜と百日草と薄《すすき》、それに次いでは日まわりと鶏頭《けいとう》である。
こう列べたら、大抵の園芸家は大きな声で笑い出すであろう。岡本綺堂という奴はよくよくの素人で、とてもお話にはならないと相場を決められてしまうに相違ない。わたしもそれは万々《ばんばん》承知しているが、心にもない嘘をつくわけには行かないから、正直に告白するのである。まあ、笑わないで聴いて貰いたい。
まず第一には糸瓜である。私はむかしから糸瓜をおもしろいものとして眺めていたが、自分の庭に栽えるようになったのは十年以来のことで、震災以後、大久保百人町に仮住居《かりずまい》をしている当時、庭のあき地を利用して、唐蜀黍《とうもろこし》の畑を作り、糸瓜の棚を作った。その棚はわたし自身が書生を相手にこしらえたもので、素人の作った棚が無事に保《も》つかといささか不安を感じていたところが、棚はその秋の強い風雨にも恙《つつが》なく、糸瓜の蔓も葉も思うさま伸びて拡がって、大きい実が十五、六もぶらりと下がったので、私たちは子供のように手をたたいて嬉しがった。
その翌年の夏、銀座の天金の主人から、暑中見舞いとして式亭三馬《しきていさんば》自画讃の大色紙の複製を貰った。それは糸瓜でなく、夕顔の棚の下に農家の夫婦が涼んでいる図で、いわゆる夕顔棚の下涼みであろう。それに三馬自筆の狂歌が書き添えてある。
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なりひさご、なりにかまはず、すゞむべい
風のふくべの木蔭たづねて
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これを見て、わたしは再び糸瓜の棚が恋しくなったが、その頃はもう麹町の旧宅地へ戻っていたので、市内の庭には糸瓜を栽えるほどの余地をあたえられなかった。そのまま幾年を送るうちに、一昨年から上目黒へ移り住むことになったので、今度は本職の植木屋に頼んで相当の棚を作らせると、果たして其の年の成績はよかった。昨年の出来もよかった。
わたしの家ばかりでなく、ここらには同好の人々が多いとみえて、所々に糸瓜を栽えている。棚を作っているのもあり、あるいは大木にからませているのもあり、軒から家根へ這わせているのもあるから、皆それぞれにおもしろい。由来、糸瓜というものはぶらり[#「ぶらり」に傍点]と下がっている姿が、なんとなく間が抜けて見えるので、とかくに軽蔑される傾きがあって、人を罵る場合にも「へちま[#「へちま」に傍点]野郎」などと云うが、そのぶらり[#「ぶらり」に傍点]としたところに一種の俳味があり、一種の野趣があることを知らなければならない。その実ばかりでなく、大きい葉にも、黄いろい花にも野趣|横溢《おういつ》、静かにそれを眺めていると、まったく都会の塵《ちり》の浮世を忘れるの感がある。糸瓜を軽蔑する人々こそ却って俗人ではあるまいかと思う。
次は百日草で、これも野趣に富むがために、一部の人々からは安っぽく見られ易いものである。梅雨のあける頃から花をつけて、十一月の末まで咲きつづけるのであるから、実に百日以上である上に、紅、黄、白などの花が続々と咲き出すのは、なんとなく爽快の感がある。元来が強い草であるから、蒔きさえすれば生える、生えれば伸びる、伸びれば咲く。花壇などには及ばない、垣根の隅でも裏手の空地でも簇々《そうそう》として発生する。あまりに強く、あまりに多いために、ややもすれば軽蔑され勝ちの運命にあることは、かの鳳仙花《ほうせんか》などと同様であるが、わたしは彼を愛すること甚だ深い。
炎天の日盛りに、彼を見るのもいいが、秋の露がようやく繁く、こおろぎの声がいよいよ多くなる時、花もますますその色を増して、明るい日光の下《もと》に咲き誇っているのは、いかにも鮮《あざや》かである。しょせんは野人の籬落《まがき》に見るべき花で、富貴の庭に見るべきものではあるまいが、われわれの荒庭には欠くべからざる草花の一種である。
その次は薄《すすき》で、これには幾多の種類があるが、普通に見られるのは糸すすき、縞すすき、鷹の羽すすきに過ぎない。しかも私の最も愛好するのは、そこらに野生の薄である。これは宿根《しゅっこん》の多年草であるが、もとより種まきの世話もなく、年々歳々生い茂って行くばかりである。野生のすすきは到るところに繁茂しているので、ひと口にカヤと呼ばれてほとんど園芸家には顧みられず、人家の庭に栽えるものでは無いとさえも云われているが、絵画や俳句ではなかなか重要の題材と見なされている。
十郎の簑《みの》にや編まん青薄
これは角田竹冷《すみたちくれい》翁の句であるが、まったく初夏の青すすきには優しい風情がある。それが夏を過ぎ、秋に入ると、ほとんど傍若無人ともいうべき勢いで生い拡がってゆく有様、これも一種の爽快を感ぜずにはいられない。殊に尾花がようやく開いて、朝風の前になびき、夕月の下《もと》にみだれている姿は、あらゆる草花のうちで他にたぐいなき眺めである。
すすきは夏もよし、秋もよいが、冬の霜を帯びた枯れすすきも、十分の画趣と詩趣をそなえている。枯れかかると直ぐに刈り取って風呂の下に投げ込むような徒《やから》は倶《とも》に語るに足らない。しかも商売人の植木屋とて油断はならない。現に去年の冬の初めにも、池のほとりの枯れすすきを危うく刈り取られようとするのを発見して、わたしがあわてて制止したことがある。彼らもこの愛すべき薄を無名の雑草なみに取扱っているらしい。
市内の狭い庭園は薄を栽えるに適しないので、わたしは箱根や湯河原《ゆがわら》などから持ち来たって移植したが、いずれも年々に痩せて行くばかりであった。上目黒に移ってから、近所の山や草原や川端をあさって、野生の大きい幾株を引き抜いて来た。誰も知っていることであろうが、薄の根を掘るのはなかなかの骨折り仕事で、書生もわたしもがっかりしたが、それでもどうにか引き摺って来て、池のほとり、垣根の隅、到るところに栽え込むと、ここらはさすがに旧郊外だけに、その生長はめざましく、あるものは七、八尺の高きに達して、それが白馬の尾髪をふり乱したような尾花をなびかせている姿は、わが家の庭に武蔵野の秋を見る心地《ここち》である。あるものは小さい池の岸を掩って、水に浮かぶ鯉《こい》の影をかくしている。あるものは四つ目垣に乗りかかって、その下草を圧している。生きる力のこれほどに強大なのを眺めていると、自分までがおのずと心強いようにも感じられて来るではないか。
すすきに次いで雄姿堂々たる草花は、鶏頭《けいとう》と向日葵《ひまわり》である。いずれも野生的であり、男性的であること云うまでも無い。ひまわりも震災直後はバラックの周囲に多く栽えられて一種の壮観を呈していたが、区画整理のおいおい進捗《しんちょく》すると共に、その姿を東京市内から消してしまって、わずかに場末の破《や》れた垣根のあたりに、二、三本ぐらいずつ栽え残されているに過ぎなくなった。しかも盛夏の赫々《かっかく》たる烈日のもとに、他の草花の凋《しお》れ返っているのをよそに見て、悠然とその大きい花輪をひろげているのを眺めると、暑い暑いなどと弱ってはいられないような気がする。
鶏頭も美しいものである。これにも種々あるらしいが、やはり普通の深紅《しんく》色がよい。オレンジ色も美しい。これも初霜の洗礼を受けて、その濃い色を秋の日にかがやかしながら、見あぐるばかりに枝や葉を高く大きくひろげた姿は、まさに目ざましいと礼讃《らいさん》するほかは無い。わたしの庭ばかりでなく、近所の籬《まがき》には皆これを栽えているので、秋日散歩の節には諸方の庭をのぞいて歩く。それが私の一つの楽しみである。葉鶏頭は鶏頭に比してやや雄大のおもむきを欠くが、天然の錦を染め出した葉の色の美しさは、なんとも譬《たと》えようがない。しかも私の庭の葉鶏頭は、どういうわけか年々の成績がよろしくない。他からいい種を貰って来ても、余り立派な生長を遂げない。私はこれのみを遺憾《いかん》に思っている。
わたしの庭の草花は勿論これにとどまらないが、わたしの最も愛するものは以上の数種で、いずれも花壇に栽えられているものでは無い。それにつけても、考えられるのは自然の心である。自然は人の労力を費すこと少なく、物資を費すこと少なきものを択《えら》んで、最も面白く、最も美しく作っている。それは人間にあたえられる自然の恩恵である。人間はその恩恵にそむいて、無用の労力を費し、無用の時間を費し、無用の金銭を費して、他の変り種のような草花の栽培にうき身をやつしているのである。そうして、自然の恩恵を無条件に受け入れて楽しむものを、あるいは素人と云い、あるいは俗物と嘲《あざけ》っているのである。こう云うのはあながちに私の負け惜しみではあるまい。[#地付き](昭10・3「サンデー毎日」)
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最後の随筆
目黒の寺
住み馴れた麹町を去って、目黒に移住してから足かけ六年になる。そのあいだに「目黒町誌」をたよりにして、区内の旧蹟や名所などを尋ね廻っているが、目黒もなかなか広い。殊に新市域に編入されてからは、碑衾町《ひぶすまちょう》をも包含することになったので、私のような出不精の者には容易に廻り切れない。
ほかの土地はともあれ、せめて自分の居住する区内の地理だけでもひと通りは心得て置くべきであると思いながら、いまだに果たし得ないのは甚だお恥かしい次第である。その罪ほろぼしと云うわけでもないが、目黒の寺々について少しばかり思い付いたことを書いてみる。
目黒には有名な寺が多い。まず第一には目黒不動として知られている下目黒の瀧泉寺、祐天上人開山として知られている中目黒の祐天《ゆうてん》寺、政岡の墓の所在地として知られている上目黒の正覚寺などを始めとして、大小十六の寺院がある。私はまだその半分ぐらいしか尋《たず》ねていないので、詳しいことを語るわけには行かないが、いずれも由緒の古い寺々で、旧市内の寺院とはおのずから其の趣を異にし、雑沓《ざっとう》を嫌う私たちにはよい散歩区域である。ただ、どこの寺でも鐘を撞《つ》かないのがさびしい。
[#ここか
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