ている。
そうは云っても、買物が種々あるというので、家内の者はたびたび出てゆく。わたしもやはり出て行く。そうして、何かしら買って帰るのである。震災に懲りたのと、経済上の都合とで、無用の品物はいっさい買い込まないことに決めているのであるが、それでも当然買わなければ済まないような必要品が次から次へと現われて来て、いつまで経っても果てしが無いように思われる。ひと口に瓦楽多《がらくた》というが、その瓦楽多道具をよほどたくさんに貯えなければ、人間の家一戸を支えて行かれないものであると云うことを、この頃になってつくづく悟《さと》った。私たちばかりでなく、すべての罹災者は皆どこかで此の失費と面倒とを繰り返しているのであろう。どう考えても、怖るべき禍いであった。
その鬱憤《うっぷん》をここに洩らすわけではないが、十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面の泥濘《ぬかるみ》で、ほとんど足の踏みどころもないと云ってよい。その泥濘のなかにも露店が出る、買物の人も出る。売る人も、買う人も、足もとの悪いなどには頓着していられないのであろうが、私のような気の弱い者はその泥濘におびやかされて、途中から空《むな》しく引っ返して来ることがしばしばある。
しかも今夜は勇気をふるい起して、そのぬかるみを踏み、その混雑を冒して、やや無用に類するものを買って来た。わたしの外套の袖の下に忍ばせている梅の枝と寒菊の花がそれである。移転以来、花を生けて眺めるという気分にもなれず、花を生けるような物も具えていないので、さきごろの天長《てんちょう》祝日に町内の青年団から避難者に対して戸毎に菊の花を分配してくれた時にも、その厚意を感謝しながらも、花束のままで庭の土に挿し込んで置くに過ぎなかった。それがどういう気まぐれか、二、三日前に古道具屋の店先で徳利のような花瓶を見つけて、ふとそれを買い込んで来たのが始まりで、急に花を生けて見たくなったのである。
庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともし頃にようやく書き終った原稿をポストに入れながら、夜の七時半頃に十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。師走《しわす》もだんだんに数《かぞ》え日《び》に迫ったので、混雑もまた予想以上である。そのあいだをどうにか斯《こ》うにか潜りぬけて、夜店の切花屋で梅と寒菊とを買うには買ったが、それを無事に保護して帰るのがすこぶる困難であった。甲の男のかかえて来るチャブ台に突き当るやら、乙の女の提げてくる風呂敷づつみに擦れ合うやら、ようようのことで安田銀行支店の角まで帰り着いて、人通りのやや少ないところで袖の下からかの花を把《と》り出して、電燈のひかりに照らしてみると、寒菊はまず無難であったが、梅は小枝の折れたのもあるばかりか、花も蕾《つぼみ》もかなりに傷められて、梶原源太《かじわらげんた》が「箙《えびら》の梅」という形になっていた。
「こんなことなら、あしたの朝にすればよかった。」
この源太は二度の駆けをする勇気もないので、寒菊の無難をせめてもの幸いに、箙の梅をたずさえて今夜はそのまま帰ってくると、家には中嶋俊雄《なかじまとしお》が来て待っていた。
「渋谷《しぶや》の道玄坂《どうげんざか》辺は大変な繁昌で、どうして、どうして、この辺どころじゃありませんよ。」と、彼は云った。
「なんと云っても、焼けない土地は仕合せだな。」
こう云いながら、わたしは梅と寒菊とを書斎の花瓶にさした。底冷えのする宵である。[#地付き](十二月二十三日)
明治座
この二、三日は馬鹿に寒い。けさは手水鉢《ちょうずばち》に厚い氷を見た。
午前八時頃に十番の通りへ出てみると、末広座の前にはアーチを作っている。劇場の内にも大勢の職人が忙がしそうに働いている。震災以来、破損のままで捨て置かれたのであるが、来年の一月からは明治座と改称して松竹合名会社の手で開場し、左団次一座が出演することになったので、俄かに修繕工事に取りかかったのである。今までは繁華の町のまんなかに、死んだ物のように寂寞《せきばく》として横たわっていた建物が、急に生き返って動き出したかとも見えて、あたりが明るくなったように活気を生じた。焚火《たきび》の烟《けむ》りが威勢よく舞いあがっている前に、ゆうべは夜明かしであったと笑いながら話している職人もある。立ち停まって珍しそうにそれを眺めている人たちもある。
足場をかけてある座の正面には、正月二日開場の口上看板がもう揚がっている。二部興行で、昼の部は忠信《ただのぶ》の道行《みちゆき》、躄《いざり》の仇討、鳥辺山《とりべやま》心中、夜の部は信長記《しんちょうき》、浪華《なにわ》の春雨《はるさめ》、双面《ふたおもて》という番組も大きく貼り出してある。
左団次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が初めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが初めであるから、その前景気は甚だ盛んで、麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るとも無しにたたずんでいるのである。
私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、又その上演の番組のことも、わたしは疾《と》うから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とか云うような、新しく勇ましい心持が胸いっぱいに漲《みなぎ》るのを覚えた。
わたしの脚本が舞台に上演されたのは、東京だけでもすでに百数十回にのぼっているのと、もう一つには私自身の性格の然らしむるところとで、わたしは従来自分の作物《さくぶつ》の上演ということに就いては余りに敏感でない方である。勿論、不愉快なことではないが、又さのみに愉快とも感じていないのであった。それが今日にかぎって一種の昂奮を感じるように覚えるのは、単にその上演目録のうちに鳥辺山心中と、信長記と、浪華の春雨と、わたしの作物が三種までも加わっていると云うばかりでなく、震災のために自分の物いっさいを失ったように感じていた私に取って、自分はやはり何物をか失わずにいたと云うことを心強く感じさせたからである。以上の三種が自分の作として、得意の物であるか不得意の物であるかを考えている暇《ひま》はない。わたしは焼け跡の灰の中から自分の財を拾い出したように感じたのであった。
「お正月から芝居がはじまる……。左団次が出る……。」と、そこらに群がっている人の口から、一種の待つある如きさざめきが伝えられている。
わたしは愉快にそれを聴いた。私もそれを待っているのである。少年時代のむかしに復《かえ》って、春を待つという若やいだ心が私の胸に浮き立った。幸か不幸か、これも震災の賜物である。
「いや、まだほかにもある。」
こう気がついて、わたしは劇場の前を離れた。横町はまだ滑りそうに凍っているその細い路を、わたしの下駄はカチカチと踏んで急いだ。家へ帰ると、すぐに書斎の戸棚から古いバスケットを取り出した。
震災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立ち退くというまぎわに、書斎の戸棚の片隅に押し込んである雑誌や新聞の切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を丁寧に調べてみる気も起らなかったが、麻布にひとまず落着いて、はじめてそれを検査すると、幾束かの切抜きがあらわれた。それは何かの参考のために諸新聞や雑誌を切り抜いて保存して置いたもので、自分自身の書いたものは二束に過ぎないばかりか、戯曲や小説のたぐいは一つもない、すべてが随筆めいた雑文ばかりである。その随筆も勿論全部ではない、おそらく三分の一か四分の一ぐらいでもあろうかと思われた。
それだけでも掴み出して来たのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊に纏めてみようかと思い立ったが、何かと多忙に取りまぎれて、きょうまで其の儘《まま》になっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切抜きをいちいちにひろげて読みかえした。
わたしは今まで随分たくさんの雑文をかいている。その全部のなかから撰み出したらば、いくらか見られるものも出来るかと思うのであるが、前にもいう通り、手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来たのであるから、なかには書き捨ての反古《ほご》同様なものもある。その反古も今のわたしにはまた捨て難い形見のようにも思われるので、なんでもかまわずに掻きあつめることにした。
こうなると、急に気ぜわしくなって、すぐにその整理に取りかかると、冬の日は短い。おまけに午後には二、三人の来客があったので、一向に仕事は捗取らず、どうにか斯《こ》うにか片付いたのは夜の九時頃である。それでも門前には往来の足音が忙がしそうに聞える。北の窓をあけて見ると、大通りの空は灯のひかりで一面に明るい。明治座は今夜も夜業《よなべ》をしているのであろうなどとも思った。
さて纏まったこの雑文集の名をなんと云っていいか判らない。今の仮住居の地名をそのままに、仮に『十番随筆』ということにして置いた。これもまた記念の意味にほかならない。[#地付き](昭和12・10刊『思い出草』所収)
[#改ページ]
風呂を買うまで
わたしは入浴が好きで、大正八年の秋以来あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。浅草千束町《あさくさせんぞくまち》辺の湯屋では依然として朝湯を焚くという話をきいて、山の手から遠くそれを羨《うらや》んでいたのであるが、そこも震災後はどうなったか知らない。
わたしが多年ゆき馴れた麹町の湯屋の主人は、あさ湯廃止、湯銭値上げなどという問題について、いつも真っさきに立って運動する一人であるという噂を聞いて、どうもよくない男だとわたしは自分勝手に彼を呪《のろ》っていたのであるが、呪われた彼も、呪ったわたしも、時をおなじゅうして震災の火に焼かれてしまった。その後わたしは目白に一旦立ち退いて、雑司ヶ谷《ぞうしがや》の鬼子母神《きしもじん》附近の湯屋にゆくことになった。震災後どこの湯屋も一週間ないし十日間休業したが、各組合で申し合せでもしたのか知れない、再び開業するときには大抵その初日と二日目とを無料入浴デーにしたのが多い。わたしも雑司ヶ谷の御園湯《みそのゆ》という湯屋でその二日間無料の恩恵を蒙った。恩恵に浴すとはまったく此の事であろう。それから十月の初めまで私は毎日この湯にかよっていた。九月二十五日は旧暦の十五夜で、わたしはこの湯屋の前で薄《すすき》を持っている若い婦人に出逢った。その婦人もこの近所に避難している人であることを予《かね》て知っているので、薄《うす》ら寒い秋風に靡《なび》いているその薄の葉摺れが、わたしの暗いこころをひとしお寂しくさせたことを記憶している。
わたしはそれから河野義博君の世話で麻布の十番に近いところに貸家を見つけて、どうにか先ず新世帯を持つことになった。十番は平生でも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまた一層甚だしいものであった。ここらにも避難者がたくさん集まっているので、どこの湯屋も少しおくれて行くと、芋を洗うような雑沓《ざっとう》で、入浴する方が却って不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここでは越《こし》の湯《ゆ》と日の出湯というのにかよって、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯で柚《ゆず》湯にはいった。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲《しょうぶ》湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく眺めながら、湯屋の新しい硝子戸をくぐった。
宿無しも今日
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