帰ると、横町の人たちももう危険の迫って来たのを覚ったらしく、路上の茶話会はいつか解散して、どこの家でも俄《にわ》かに荷ごしらえを始め出した。わたしの家の暗いなかにも一本の蝋燭《ろうそく》の火が微《かす》かにゆれて、妻と女中と手伝いの人があわただしく荷作りをしていた。どの人も黙っていた。
万一の場合には紀尾井町《きおいちょう》の小林蹴月《こばやししゅうげつ》君のところへ立ち退くことに決めてあるので、私たちは差しあたりゆく先に迷うようなことはなかったが、そこへも火の手が追って来たらば、更にどこへ逃げてゆくか、そこまで考えている余裕はなかった。この際、いくら欲張ったところでどうにも仕様はないので、私たちはめいめいの両手に持ち得るだけの荷物を持ち出すことにした。わたしは週刊朝日の原稿をふところに捻《ね》じ込んで、バスケットと旅行用の鞄とを引っさげて出ると、地面がまた大きく揺らいだ。
「火の粉が来るよう。」
どこかの暗い家根のうえで呼ぶ声が遠くきこえた。庭の隅にはこおろぎの声がさびしく聞えた。蝋燭をふき消した私の家のなかは闇になった。
わたしの横町一円が火に焼かれたのは、それから一時間の後であった。小林君の家へゆき着いてから、わたしは宇治拾遺《うじしゅうい》物語にあった絵仏師の話を思い出した。彼は芸術的満足を以って、わが家の焼けるのを笑いながちながめていたと云うことである。わたしはその烟りさえも見ようとはしなかった。[#地付き](大正12・10「婦人公論」)
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十番雑記
昭和十二年八月三十一日、火曜日。午前は陰、午後は晴れて暑い。
虫干しながらの書庫の整理も、連日の秋暑に疲れ勝ちでとかくに捗取《はかど》らない。いよいよ晦日《みそか》であるから、思い切って今日じゅうに片付けてしまおうと、汗をふきながら整理をつづけていると、手文庫の中から書きさしの原稿類を相当に見いだした。いずれも書き捨ての反古《ほご》同様のものであったが、その中に「十番雑記」というのがある。私は大正十二年の震災に麹町の家を焼かれて、その十月から翌年の三月まで麻布の十番に仮寓《かぐう》していた。唯今見いだしたのは、その当時の雑記である。
わたしは麻布にある間に『十番随筆』という随筆集を発表している。その後にも『猫柳《ねこやなぎ》』という随筆集を出した。しかも「十番雑記」の一文はどれにも編入されていない。傾きかかった古家の薄暗い窓のもとで、師走の夜の寒さにすくみながら、当時の所懐と所見とを書き捨てたままで別にそれを発表しようとも思わず、文庫の底に押込んでしまったのであろう。自分も今まで全く忘れていたのを、十四年後のきょう偶然発見して、いわゆる懐旧の情に堪えなかった。それと同時に、今更のように思い浮かんだのは震災十四周年の当日である。
「あしたは九月一日だ。」
その前日に、その当時の形見ともいうべき「十番雑記」を発見したのは、偶然とはいいながら一種の因縁がないでも無いように思われて、なんだか捨て難い気にもなったので、その夜の灯のもとで再読、この随筆集に挿入することにした。
仮住居
十月十二日の時雨《しぐれ》ふる朝に、私たちは目白《めじろ》の額田六福《ぬかだろっぷく》方を立ち退いて、麻布|宮村町《みやむらちょう》へ引き移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。裏は高い崖《がけ》になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押し寄せていた。
崖下の家はあまり嬉しくないなどと贅沢を云っている場合でない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多《めった》に空家のあろう筈はなく、さんざんに探し抜いた揚句の果てに、河野義博《こうのよしひろ》君の紹介でようよう此処《ここ》に落着くことになったのは、まだしもの幸いであると云わなければなるまい。これでともかくも一時の居どころは定まったが、心はまだ本当に定まらない。文字通りに、箸一つ持たない丸焼けの一家族であるから、たとい仮住居にしても一戸を持つとなれば、何かと面倒なことが多い。ふだんでも冬の設けに忙がしい時節であるのに、新世帯もちの我々はいよいよ心ぜわしい日を送らねばならなかった。
今度の家は元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。襖《ふすま》も傷《いた》んでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。移転の日に若い人たちがあつまって、庭の草はどうにか綺麗に刈り取ってくれた。壁の崩れたところも一部分は貼ってくれた。襖だけは家主から経師屋《きょうじや》の職人をよこして応急の修繕をしてくれたが、それも一度ぎりで姿をみせないので、家内総がかりで貼り残しの壁を貼ることにした。幸いに女中が器用なので、まず日本紙で下貼りをして、その上を新聞紙で貼りつめて、さらに壁紙で上貼りをして、これもどうにか斯《こ》うにか見苦しくないようになった。そのあくる日には障子も貼りかえた。
その傍らに、わたしは自分の机や書棚やインクスタンドや原稿紙のたぐいを買いあるいた。妻や女中は火鉢や盥《たらい》やバケツや七輪《しちりん》のたぐいを毎日買いあるいた。これで先ず不完全ながらも文房具や世帯道具がひと通り整うと、今度は冬の近いのに脅《おびや》かされなければならなかった。一枚の冬着さえ持たない我々は、どんな粗末なものでも好《よ》いから寒さを防ぐ準備をしなければならない。夜具の類は出来合いを買って間にあわせることにしたが、一家内の者の羽織や綿入れや襦袢《じゅばん》や、その針仕事に女たちはまた忙がしく追い使われた。
目白に避難の当時、それぞれに見舞いの品を贈ってくれた人もあった。ここに移転してからも、わざわざ祝いに来てくれた人もあった。それらの人々に対して、妻とわたしとが代るがわるに答礼に行かなければならなかった。市内の電車は車台の多数を焼失したので、運転系統がいろいろに変更して、以前ならば一直線にゆかれたところも、今では飛んでもない方角を迂回して行かなければならない。十分か二十分でゆかれたところも、三十分五十分を要することになる。勿論どの電車も満員で容易に乗ることは出来ない。市内の電車がこのありさまであるから、それに連れて省線の電車がまた未曾有《みぞう》の混雑を来たしている。それらの不便のために、一日いらいら[#「いらいら」に傍点]ながら駈けあるいても、わずかに二軒か三軒しか廻り切れないような時もある。又そのあいだには旧宅の焼け跡の整理もしなければならない。震災に因って生じたもろもろの事件の始末も付けなければならない。こうして私も妻も女中らも無暗《むやみ》にあわただしい日を送っているうちに、大正十二年も暮れて行くのである。
「こんな年は早く過ぎてしまう方がいい。」
まあ、こんなことでも云うよりほかはない。なにしろ余ほどの老人でない限りは、生まれて初めてこんな目に出逢ったのであるから、狼狽混乱、どうにも仕様のないのが当りまえであるかも知れないが、罹災《りさい》以来そのあと始末に四ヵ月を費して、まだほんとうに落着かないのは、まったく困ったことである。年が改《あらた》まったと云って、すぐに世のなかが改まるわけでないのは判り切っているが、それでも年があらたまったらば、心持だけでも何とか新しくなり得るかと思うが故に、こんな不祥《ふしょう》な年は早く送ってしまいたいと云うのも普通の人情かも知れない。
今はまだ十二年の末であるから、新しい十三年がどんな年で現われてくるか判らない。元旦も晴か雨か、風か雪か、それすらもまだ判らない位であるから、今から何も云うことは出来ないが、いずれにしても私はこの仮住居で新しい年を迎えなければならない。それでもバラックに住む人たちのことを思えば何でもない。たとい家を焼かれても、家財と蔵書いっさいをうしなっても、わたしの一家は他に比較してまだまだ幸福であると云わなければならない。わたしは今までにも奢侈《おごり》の生活を送っていなかったのであるから、今後も特に節約をしようとも思わない。しかし今度の震災のために直接間接に多大の損害をうけているから、その幾分を回復するべく大いに働かなければならない。まず第一に書庫の復興を計らなければならない。
父祖の代から伝わっている刊本写本五十余種、その大部分は回収の見込みはない。父が晩年の日記十二冊、わたし自身が十七歳の春から書きはじめた日記三十五冊、これらは勿論あきらめるよりほかはない。そのほかにも私が随時に記入していた雑記帳、随筆、書抜き帳、おぼえ帳のたぐい三十余冊、これも自分としてはすこぶる大切なものであるが、今さら悔むのは愚痴である。せめてはその他の刊本写本だけでもだんだんに買い戻したいと念じているが、その三分の一も容易に回収は覚束なそうである。この頃になって書棚の寂しいのがひどく眼についてならない。諸君が汲々《きゅうきゅう》として帝都復興の策を講じているあいだに、わたしも勉強して書庫の復興を計らなければならない。それがやはりなんらかの意義、なんらかの形式に於いて、帝都復興の上にも貢献するところがあろうと信じている。
わたしの家では、これまでも余り正月らしい設備をしたこともないのであるから、この際とても特に例年と変ったことはない。年賀状は廃するつもりであったが、さりとて平生懇親にしている人々に対して全然無沙汰で打ち過ぎるのも何だか心苦しいので、震災後まだほんとうに一身一家の安定を得ないので歳末年始の礼を欠くことを葉書にしたためて、年内に発送することにした。そのほかには、春に対する準備もない。
わたしの庭には大きい紅梅がある。家主の話によると、非常に美事な花をつけると云うことであるが、元日までには恐らく咲くまい。[#地付き](大正十二年十二月二十日)
箙《えびら》の梅
狸坂くらやみ坂や秋の暮
これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推し量られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名がいっそう幽暗の感を深うしたのであった。
坂の名ばかりでなく、土地の売り物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬき[#「たぬき」に傍点]と云うのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかし狐や狸の巣窟《そうくつ》であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とか云わなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所無し」が、今の場合まったく痛切に感じられた。
しかし私の横町にも人家が軒なみに建ち続いているばかりか、横町から一歩ふみ出せば、麻布第一の繁華の地と称せらるる十番の大通りが眼の前に拡がっている。ここらは震災の被害も少なく、もちろん火災にも逢わなかったのであるから、この頃は私たちのような避難者がおびただしく流れ込んで来て、平常よりも更に幾層の繁昌をましている。殊に歳の暮れに押し詰まって、ここらの繁昌と混雑はひと通りでない。余り広くもない往来の両側に、居付きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列《なら》んでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢《ひ》かれるか、路ばたの大溝《おおどぶ》へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。
「震災を無事にのがれた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意し
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