入るのである。今日と違って、その当時の衛戍病院の入口は、往来よりも少しく高い所にあって、さしたる勾配《こうばい》でもないが一種の坂路をなしていた。
 その坂路にかかって、車夫が梶棒を急転した為に、車はずるり[#「ずるり」に傍点]と後戻りをして、そのあとに付いて来た私の車の右側に衝突すると、はずみは怖ろしいもので、双方の車はたちまち顛覆《てんぷく》した。軍医殿も私も路上に投げ出された。
 ぞっ[#「ぞっ」に傍点]としたのは、その一刹那である。単に投げ出されただけならば、まだしも災難が軽いのであるが、私の車のまたあとから外国人を乗せた二頭立ての馬車が走って来たのである。軍医殿は幸いに反対の方へ落ちたが、私は路上に落ちると共に、その馬車が乗りかかって来た。私ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。それを見た往来の人たちも思わずあっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ。私のからだは完全に馬車の下敷きになったのである。
 馬車に乗っていたのは若い外国婦人で、これも帛《きぬ》を裂くような声をあげた。私を轢《ひ》いたと思ったからである。私も無論に轢かれるものと覚悟した。馬車の馬丁《ばてい》もあわてて手綱をひき留
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