《ようや》くやんだ。山の方では鹿の声が遠くきこえた。あわれな無信仰者は初めて平和の眠りに就いた。枕もとの時計はもう一時を過ぎていた。[#地付き](大正2・10「やまと新聞」)
[#改ページ]
秋の修善寺
(一)
[#ここから2字下げ]
(明治四十一年)九月の末におくればせの暑中休暇を得て、伊豆《いず》の修善寺《しゅうぜんじ》温泉に浴し、養気館の新井《あらい》方にとどまる。所作為《しょざい》のないままに、毎日こんなことを書く。
[#ここで字下げ終わり]
二十六日。きのうは雨にふり暮らされて、宵から早く寝床にはいったせいか、今朝は五時というのにもう眼が醒めた。よんどころなく煙草をくゆらしながら、襖《ふすま》にかいた墨絵の雁《かり》と相対すること約半時間。おちこちに鶏《とり》が勇ましく啼《な》いて、庭の流れに家鴨《あひる》も啼いている。水の音はひびくが雨の音はきこえない。
六時、入浴。その途中に裏二階から見おろすと、台所口とも思われる流れの末に長さ三|尺《じゃく》ほどの蓮根《れんこん》をひたしてあるのが眼についた。湯は菖蒲の湯で、伝説にいう、源三位頼政《げんざんみより
前へ
次へ
全408ページ中197ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング