こんにち》のように追剥《おいは》ぎや出歯亀《でばかめ》の噂《うわさ》などは甚《はなは》だ稀《まれ》であった。
遊芸の稽古《けいこ》所と云うものもいちじるしく減じた。私の子供の頃には、元園町一丁目だけでも長唄の師匠が二、三軒、常磐津《ときわづ》の師匠が三、四軒もあったように記憶しているが、今ではほとんど一軒もない。湯帰りに師匠のところへ行って、一番|唸《うな》ろうという若い衆も、今では五十銭均一か何かで新宿《しんじゅく》へ繰り込む。かくの如くにして、江戸っ子は次第に亡《ほろ》びてゆく。浪花節の寄席が繁昌《はんじょう》する。
半鐘《はんしょう》の火の見|梯子《ばしご》と云うものは、今は市中に跡を絶ったが、わたしの町内にも高い梯子があった。或る年の秋、大嵐のために折れて倒れて、凄まじい響きに近所を驚かした。翌《あく》る朝、私が行ってみると、梯子は根もとから見事に折れて、その隣りの垣を倒していた。その頃には烏瓜《からすうり》が真っ赤に熟して、蔓《つる》や葉が搦《から》み合ったままで、長い梯子と共に横たわっていた。その以来、わたしの町内に火の見梯子は廃せられ、そのあとに、関《せき》運漕店の旗竿が高く樹《た》っていたが、それも他に移って、今では立派な紳士の邸宅になっている。
西郷星
かの西南|戦役《せんえき》は、わたしの幼い頃のことで何んにも知らないが、絵草紙屋《えぞうしや》の店にいろいろの戦争絵のあったのを記憶している。いずれも三枚続きで、五銭くらい。また、そのころ流行《はや》った唄に、
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※[#歌記号、1−3−28]紅《あか》い帽子《シャッポ》は兵隊さん、西郷に追われて、
トッピキピーノピー。
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今思えば十一年八月二十三日の夜であった。夜半《よなか》に近所の人がみな起きた。私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音がきこえる。父は鉄砲の音だと云う。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て、「なんでも竹橋《たけばし》内で騒動が起きたらしい。時どきに流れだまが飛んで来るから戸を閉めて置け。」と云う。わたしは衾《よぎ》をかぶって蚊帳《かや》の中に小さくなっていると、暫《しばらく》くしてパチパチの音も止《や》んだ。これは近衛《このえ》兵の一部が西南|役《えき》の論功行賞《ろんこうこうしょう》に不平を懐《いだ》いて、突然暴挙を企てたものと後に判った。
やはり其の年の秋と記憶している。毎夜東の空に当って箒星《ほうきぼし》が見えた。誰が云い出したか知らないが、これを西郷星《さいごうぼし》と呼んで、さき頃のハレー彗星《すいせい》のような騒ぎであった。しまいには錦絵まで出来て、西郷|桐野《きりの》篠原《しのはら》らが雲の中に現われている図などが多かった。
また、その頃に西郷鍋というものを売る商人が来た。怪しげな洋服に金紙《きんがみ》を着けて金モールと見せ、附け髭《ひげ》をして西郷の如く拵《こしら》え、竹の皮で作った船のような形の鍋を売る、一個一銭。勿論《もちろん》、一種の玩具《おもちゃ》に過ぎないのであるが、なにしろ西郷というのが呼び物で、大繁昌であった。私などは母にせがんで幾度も買った。
そのほかにも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を食っては毒だ。」と叱《しか》られたので、買わずにしまった。
湯屋
湯屋《ゆうや》の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗《こぎれい》な姐《ねえ》さんが二、三人居た。
わたしが七つか八つの頃、叔父に連れられて一度その二階に上がったことがある。火鉢に大きな薬罐《やかん》が掛けてあって、そのわきには菓子の箱が列《なら》べてある。のちに思えば例の三馬《さんば》の「浮世風呂」をその儘《まま》で、茶を飲みながら将棋をさしている人もあった。
時はちょうど五月の初めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲《しょうぶ》を花瓶《かびん》に挿《さ》していたのを記憶している。松平紀義《まつだいらのりよし》のお茶《ちゃ》の水《みず》事件で有名な御世梅《ごせめ》お此《この》という女も、かつてこの二階にいたと云うことを、十幾年の後に知った。
その頃の湯風呂には、旧式の石榴口《ざくろぐち》と云うものがあって、夜などは湯煙《ゆげ》が濛々《もうもう》として内は真っ暗。しかもその風呂が高く出来ているので、男女ともに中途の階段を登ってはいる。石榴口には花鳥風月もしくは武者絵などが画《か》いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に水滸伝《すいこでん》の花和尚《かおしょう》と九紋龍《くもんりゅう》、女湯の石榴口には例の
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