葉かげに腰をかがめておてつが毎朝入口を掃《は》いているのを見た。汁粉《しるこ》と牡丹餅とを売っているのであるが、私の知っている頃には店もさびれて、汁粉も牡丹餅も余り旨《うま》くはなかったらしい。近所ではあったが、わたしは滅多《めった》に食いに行ったことはなかった。
おてつ牡丹餅の跡へは、万屋《よろずや》という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日まで繁昌《はんじょう》している。おてつ親子は麻布《あざぶ》の方へ引っ越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
わたしの貰《もら》った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父《おとっ》さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意《こんい》にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見と云ったような心持で、店の土瓶《どびん》や茶碗などを知己《しるべ》の人々に分配した。O君の阿父《おとっ》さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
汁粉屋の茶碗と云うけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼きも薬も悪くない。平仮名でおてつと大きく書いてある。わたしは今これを自分の茶碗に遣《つか》っている。しかし此《こ》の茶碗には幾人の唇《くちびる》が触れたであろう。
今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼《しんきろう》のように朦朧《もうろう》と現われて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金《ぶんきん》高島田にや[#「や」に傍点]の字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れて徐《しず》かにはいって来た。娘の長い袂《たもと》は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。
この二人の姿が消えると、芝居で観る久松《ひさまつ》のような丁稚《でっち》がはいって来た。丁稚は大きい風呂敷包みをおろして縁《えん》に腰をかけた。どこへか使いに行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先《ま》ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂れで口を拭《ふ》いて、逃げるようにこそこそ[#「こそこそ」に傍点]と出て行った。
講武所《こうぶしょ》ふうの髷《まげ》に結《ゆ》って、黒|木綿《もめん》の紋付、小倉《こくら》の馬乗り袴《ばかま》、朱鞘《しゅざや》の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯《ほおば》の高い下駄をがらつかせた若侍が、大手を振ってはいって来た。彼は鉄扇《てっせん》を持っていた。悠々と蒲団《ふとん》の上にすわって、角《つの》細工の骸骨《がいこつ》を根付《ねつけ》にした煙草《たばこ》入れを取り出した。彼は煙りを強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽《らいさんよう》の詩を吟じた。
町の女房らしい二人連れが日傘を持ってはいって来た。かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿《おはぐろ》を着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へ上《のぼ》って来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河《ひらかわ》の天神さまへも参詣して行こうと云った。
おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッと云う鬨《とき》の声が揚がった。焙烙《ほうろく》調練が始まったらしい。
わたしは巻煙草を喫《の》みながら、椅子《いす》に寄りかかって、今この茶碗を眺めている。かつてこの茶碗に唇《くちびる》を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。
芸妓
有名なおてつ牡丹餅の店が私の町内の角に存していたころ、その頃の元園町には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目には芸妓屋《げいしゃや》もあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉、小浪などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原《よしわら》に巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮《やぼ》な町では無かったらしい。
また、その頃のことで私がよく記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確かに今の方がよい。下町《したまち》は知らず、われわれの住む山の手では、商家でも店でこそランプを用《もち》いたれ、奥の住居《すまい》ではたいてい行燈《あんどう》をとぼしていた。家によっては、店先にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯《ガス》燈もない、電燈もない、軒ランプなども無論なかった。したがって、夜の暗いことはほとんど今の人の想像の及ばないくらいで、湯に行くにも提灯《ちょうちん》を持ってゆく。寄席《よせ》に行くにも提灯を持ってゆく。おまけに路がわるい。雪どけの時などには、夜はうっかり歩けないくらいであった。しかし今日《
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