に比類あるべからず」と云い、「われ六、七歳のころより好みくひて、八十歳まで無病なるはこの霊薬の効験にして、草根木皮《そうこんぼくひ》のおよぶ所にあらず」とも云っている。今日でも彦麿翁の流れを汲んで、長生きの霊薬として鰻を食う人があるらしい。それほどの霊薬かどうかは知らないが、「一天四海に比類あるべからず」だけは私も同感である。しかもそれは昔のことで、江戸前ようやくに亡び絶えて、旅うなぎや養魚場生まれの鰻公《まんこう》が到るところにのたくる当世と相成っては、「比類あるべからず」も余ほど割引きをしなければならないことになった。
次に瓜《うり》である。夏の野菜はたくさんあるが、そのうちでも代表的なのは瓜と枝豆であろう。青々した枝豆の塩ゆでも悪くない。しかも見るから夏らしい感じをあたえるものは、胡瓜《きゅうり》と白瓜である。胡瓜は漬け物のほかに、胡瓜|揉《も》みという夏向きの旨い調理法がむかしから工夫されていて、かの冷奴と共に夏季の食膳の上には欠くべからざる民衆的の食い物となっている。白瓜は漬け物のほかに使い道はないようであるが、それだけでも十分にその役目を果たしているではないか。そのほかに茄子《なす》や生姜《しょうが》のたぐいがあるとしても、夏の漬け物はやはり瓜である。茄子の濃《こ》むらさき、生姜の薄くれない、皆それぞれに美しい色彩に富んでいるが、青く白く、見るから清々《すがすが》しいのは瓜の色におよぶものはない。味はすこしく茄子に劣るが、その淡い味がいかにも夏のものである。
百人一首の一人、中納言|朝忠《あさただ》卿は干瓜を山のごとくに積んで、水漬けの飯をしたたかに食って人をおどろかしたと云うが、その干瓜というのは、かの雷干《かみなりぼし》のたぐいかも知れない。白瓜を割《さ》いて炎天に干すのを雷干という。食ってはさのみ旨いものでもないが、一種の俳味のあるもので、誰が云い出したか雷干とは面白い名をつけたものだと思う。
花火
俳諧《はいかい》では花火を秋の季に組み入れているが、どうもこれは夏のものらしい。少なくとも東京では夏の宵の景物《けいぶつ》である。
哀えたと云っても、両国の川開きに江戸以来の花火のおもかげは幾分か残っている。しかし私は川開き式の大花火をあまり好まない。由来、どこの土地でも大仕掛けの花火を誇りとする傾きがあるらしいが、いたずらに大仕掛けを競うものには、どうも風趣が乏しいようである。花火はむしろ子供たちがもてあそぶ細い筒の火にかぎるように私は思う。
わたしの子供の頃には、花火をあげて遊ぶ子供たちが多かった。夏の長い日もようやく暮れて、家々の水撒《みずま》きもひと通り済んで、町の灯がまばらに燦《きら》めいてくると、子供たちは細い筒の花火を持ち出して往来に出る。そこらの涼み台では団扇《うちわ》の音や話し声がきこえる。子供たちは往来のまん中に出るのもある、うす暗い立木のかげにあつまるものもある。そうして、思い思いに花火をうち揚げる。もとより細い筒であるから、火は高くあがらない。せいぜいが二階家の屋根を越えるくらいで、ぽん[#「ぽん」に傍点]と揚がるかと思うと、すぐに開いて直ぐに落ちる。まことに単純な、まことに呆気《あっけ》ないものではあるが、うす暗い町で其処《そこ》にも此処《ここ》にもこの小さい火の飛ぶ影をみるのは、一種の涼しげな気分を誘い出すものであった。
白地の浴衣《ゆかた》を着た若い娘が虫籠をさげて夜の町をゆく。子供の小さい花火は、その行く手を照らすかのように低く飛んでいる。――こう書くと、それは絵であるというかも知れない。しかし私たちの子供のときには、こういう絵のような風情はめずらしくなかった。絵としてはもちろん月並《つきなみ》の画題でもあろうが、さて実際にそういう風情をみせられると、決して悪くは感じない。まわり燈籠、組みあげ燈籠、虫籠、蚊いぶしの煙り、西瓜の截ち売り、こうしたものが都会の夏の夜らしい気分を作り出すとすれば、子供たちの打ち揚げる小さい花火もたしかにその一部を担任していなければならない。
花火は普通の打ち揚げのほかに、鼠花火、線香花火のあることは説明するまでもあるまい。鼠花火はいたずら者が人を嚇《おど》してよろこぶのである。線香花火は小さい児や女の児をよろこばせるのである。そのほかに幽霊花火というのもあった。これはお化け花火とも云って、鬼火のような青い火がただトロトロと燃えて落ちるだけであるが、いたずら者は暗い板塀や土蔵の白壁のかげにかくれて、蚊に食われながらその鬼火を燃やして、臆病者の通りかかるのを待っているのであった。
学校の暑中休暇中の仕事は、勉強するのでもない、避暑旅行に出るのでもない、活動写真にゆくのでもない。昼は泳ぎにゆくか、蝉やとんぼを追いまわしに出る。そう
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