別に何らかの主張があるのか、若い僧の心持は私には判らなかった。油蝉の暑苦しく鳴いている木の下で、わたしは厚く礼を云って僧と別れた。僧の痩せた姿は大きな芭蕉《ばしょう》の葉のかげへ隠れて行った。
自己の功名の犠牲として、罪のない藤戸《ふじと》の漁民を惨殺した佐々木盛綱は、忠勇なる鎌倉武士の一人として歴史家に讃美されている。復讐《ふくしゅう》の同盟に加わることを避けて、先君の追福と陰徳とに余生を送った大野九郎兵衛は、不忠なる元禄武士の一人として浄瑠璃《じょうるり》の作者にまで筆誅されてしまった。私はもう一度かの僧を呼び止めて、元禄武士に対する彼の詐《いつわ》らざる意見を問い糺《ただ》して見ようかと思ったが、彼の迷惑を察してやめた。
今度行ってみると、佐々木の墓も大野の墓も旧《もと》のままで、大野の墓の花筒には白いつつじが生けてあった。かの若い僧が供えたのではあるまいか。わたしは僧を訪わずに帰ったが、彼の居間らしい所には障子が閉じられて、低い四つ目垣の裾《すそ》に芍薬《しゃくやく》が紅《あか》く咲いていた。
旅館の門を出て右の小道をはいると、丸い石を列べた七、八段の石段がある。登り降りは余り便利でない。それを登り尽くした丘の上に、大きい薬師堂が東にむかって立っていて、紅白の長い紐を垂れた鰐口《わにぐち》が懸かっている。木連《きつれ》格子の前には奉納の絵馬もたくさんに懸かっている。め[#「め」に傍点]の字を書いた額も見える。千社札《せんじゃふだ》も貼ってある。右には桜若葉の小高い崖《がけ》をめぐらしているが、境内はさのみ広くもないので、堂の前の一段低いところにある家々の軒は、すぐ眼の下に連なって見える。わたしは時にここへ散歩に行ったが、いつも朝が早いので、参詣らしい人の影を認めたことはなかった。
それでもたった一度若い娘が拝んでいるのを見たことがある。娘は十七、八らしい。髪は油気の薄い銀杏《いちょう》がえしに結って、紺飛白《こんがすり》の単衣《ひとえもの》に紅い帯を締めていた。その風体はこの丘の下にある鉱泉会社のサイダー製造にかよっている女工らしく思われた。色は少し黒いが容貌《きりょう》は決して醜《みにく》い方ではなかった。娘は湿れた番傘を小脇に抱えたままで、堂の前に久しくひざまずいていた。細かい雨は頭の上の若葉から漏れて、娘のそそけた鬢《びん》に白い雫《しずく》を宿しているのも何だか酷《むご》たらしい姿であった。わたしは暫く立っていたが、娘は容易に動きそうもなかった。
堂と真向いの家はもう起きていた。家の軒には桑籠《くわかご》がたくさん積まれて、若い女房が蚕棚《かいこだな》の前に襷《たすき》がけで働いていた。若い娘は何を祈っているのか知らない。若い人妻は生活に忙がしそうであった。
どこかで蛙が鳴き出したかと思うと、雨はさアさアと降って来た。娘はまだ一心に拝んでいた。女房は慌てて軒下の桑籠を片付け始めた。[#地付き](大正5・6「木太刀」)
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栗の花
栗《くり》の花、柿の花、日本でも初夏の景物にはかぞえられていますが、俳味に乏しい我々は、栗も柿もすべて秋の梢にのみ眼をつけて、夏のさびしい花にはあまり多くの注意を払っていませんでした。秋の木の実を見るまでは、それらはほとんど雑木《ぞうき》に等《ひと》しいもののように見なしていましたが、その軽蔑《けいべつ》の眼は欧洲大陸へ渡ってから余ほど変って来ました。この頃の私は決して栗の木を軽蔑しようとは思いません。必ず立ちどまって、その梢をしばらく瞰《み》あげるようになりました。
ひと口に栗と云っても、ここらの国々に多い栗の木は、普通にホース・チェストナットと呼ばれて、その実を食うことは出来ないと云います。日本でいうどんぐり[#「どんぐり」に傍点]のたぐいであるらしく思われる。しかしその木には実に見事な大きいのがたくさんあって、花は白と薄紅との二種あります。倫敦《ロンドン》市中にも無論に多く見られるのですが、わたしが先ず軽蔑の眼を拭《ぬぐ》わせられたのは、キウ・ガーデンをたずねた時でした。
五月中旬からロンドンも急に夏らしくなって、日曜日の新聞を見ると、ピカデリー・サーカスにゆらめく青いパラソルの影、チャーリング・クロスに光る白い麦藁《むぎわら》帽の色、ロンドンももう夏のシーズンに入ったと云うような記事がみえました。その朝に高田商会のT君がわざわざ誘いに来てくれて、きょうはキウ・ガーデンへ案内してやろうと云う。
早速に支度をして、ベーカーストリートの停車場から運ばれてゆくと、ガーデンの門前にゆき着いて、先ずわたしの眼をひいたのは、かのホース・チェストナットの並木でした。日本の栗の木のいたずらにひょろひょろしているのとは違って、こんもりと生い茂った木振《きぶ
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