飛んで来ると、湯の町を一ぱいに掩っている若葉の光りが生きたように青く輝いて来る。ごむほおずきを吹くような蛙《かわず》の声が四方に起ると、若葉の色が愁《うれ》うるように青黒く陰って来る。
晴れの使いとして鳩の群れが桜の若葉をくぐって飛んで来る日には、例の「どうも困ります」が、暫く取り払われるのである。その使いも今日は見えない。宿の二階から見あげると、妙義みちにつづく南の高い崖みちは薄黒い若葉に埋められている。
旅館の庭には桜のほかに青梧《あおぎり》と槐《えんじゅ》とを多く栽《う》えてある。痩せた梧の青い葉はまだ大きい手を拡げないが、古い槐の新しい葉は枝もたわわに伸びて、軽い風にも驚いたように顫《ふる》えている。そのほかに梅と楓と躑躅《つつじ》と、これらが寄り集まって夏の色を緑に染めているが、これは幾分の人工を加えたもので、門《かど》を一歩出ると、自然はこの町の初夏を桜若葉で彩《いろど》ろうとしていることが直ぐにうなずかれる。
雨が小歇《こや》みになると、町の子供や旅館の男が箒《ほうき》と松明《たいまつ》とを持って桜の毛虫を燔《や》いている。この桜若葉を背景にして、自転車が通る。桑を積んだ馬が行く。方々の旅館で畳替えを始める。逗留客が散歩に出る。芸妓《げいしゃ》が湯にゆく。白い鳩が餌《えさ》をあさる。黒い燕《つばめ》が往来なかで宙返りを打つ。夜になると、蛙が鳴く、梟《ふくろう》が鳴く。門付《かどづ》けの芸人が来る。碓氷川《うすいがわ》の河鹿《かじか》はまだ鳴かない。
おととしの夏ここへ来たときに下磯部の松岸寺《しょうがんじ》へ参詣したが、今年も散歩ながら重ねて行った。それは「どうも困ります」の陰った日で、桑畑を吹いて来るしめった風は、宿の浴衣《ゆかた》の上にフランネルをかさねた私の肌に冷やびやと沁《し》みる夕方であった。
寺は安中《あんなか》みちを東に切れた所で、ここら一面の桑畑が寺内まで余ほど侵入しているらしく見えた。しかし、由緒ある古刹《こさつ》であることは、立派な本堂と広大な墓地とで容易に証明されていた。この寺は佐々木盛綱《ささきもりつな》と大野九郎兵衛《おおのくろべえ》との墓を所有しているので名高い。佐々木は建久《けんきゅう》のむかし此の磯部に城を構えて、今も停車場の南に城山の古蹟を残している位であるから、苔《こけ》の蒼い墓石は五輪塔のような形式でほとんど完全に保存されている。これに列《なら》んで其の妻の墓もある。その傍には明治時代に新しく作られたという大きい石碑もある。
しかし私に取っては、大野九郎兵衛の墓の方が注意を惹《ひ》いた。墓は大きい台石の上に高さ五尺ほどの楕円形の石を据えてあって、石の表には慈望遊謙《じぼうゆうけん》墓、右に寛延《かんえん》○年と彫ってあるが、磨滅しているので何年かよく読めない。墓のありかは本堂の横手で、大きい杉の古木をうしろにして、南にむかって立っている。その傍にはまた高い桜の木が聳えていて、枝はあたかも墓の上を掩うように大きく差し出ている。周囲にはたくさんの古い墓がある。杉の立木は昼を暗くする程に繁っている。「仮名手本忠臣蔵」の作者|竹田出雲《たけだいずも》に斧九太夫《おのくだゆう》という名を与えられて以来、ほとんど人非人のモデルであるように、あまねく世間に伝えられている大野九郎兵衛という一個の元禄《げんろく》武士は、ここを永久の住み家と定めているのである。
一昨年初めて参詣した時には、墓のありかが知れないので寺僧に頼んで案内してもらった。彼は品のよい若僧《にゃくそう》で、いろいろ詳しく話してくれた。その話に拠《よ》ると、その当時のこの磯部には浅野《あさの》家所領の飛び地が約三百石ほどあった。その縁故に因って、大野は浅野家滅亡の後ここに来て身を落ちつけたらしい。そうして、大野とも云わず、九郎兵衛とも名乗らず、単に遊謙《ゆうけん》と称する一個の僧となって、小さい草堂《そうどう》を作って朝夕に経を読み、かたわらには村の子供たちを集めて読み書きを指南していた。彼が直筆《じきひつ》の手本というものが今も村に残っている。磯部に於ける彼は決して不人望ではなかった。弟子たちにも親切に教えた、いろいろの慈善をも施した、碓氷川の堤防も自費で修理した。墓碑に寛延の年号を刻んであるのを見ると、よほど長命であったらしい。独身の彼は弟子たちの手に因って其の亡骸《なきがら》をここに葬られた。
「これだけ立派な墓が建てられているのを見ると、村の人にはよほど敬慕されていたんでしょうね。」と、わたしは云った。
「そうかも知れません。」
僧は彼に同情するような柔らかい口振りであった。たとえ不忠者にもせよ、不義者にもあれ、縁あって我が寺内に骨を埋めたからは、平等の慈悲を加えたいという宗教家の温かい心か、あるいは
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