毒虫は絶滅させなければなるまい。
 蝎は敵に囲まれた時は自殺する。おのが尻尾《しっぽ》の剣先をおのが首に突き刺して仆《たお》れるのである。動物にして自殺するのは、恐らく蝎のほかにあるまい。蝎もまた一種の勇者である。

     水

 満洲の水は悪いというので、軍隊が基地点へゆき着くと、軍医部では直ぐにそこらの井戸の水を検査して「飲ムベシ」とか「飲ムベカラズ」とか云う札《ふだ》を立てることになっていた。
 私が海城村落の農家へ泊まりに行くと、あたかも軍医部員が検査に来て、家の前の井戸に木札を立てて行くところであった。見ると、その札に曰く「人馬飲ムベカラズ」
 人間は勿論、馬にも飲ませるなと云うのである。これは大変だと思って、呼びとめて訊くと、「あんな水は絶対に飲んではいけません」という返事である。この暑いのに、眼の前の水を飲むことが出来なくては困ると、わたしはすこぶる悲観していると、それを聞いて宿の主人は声をあげて笑い出した。
「はは、途方もない。わたしの家はここに五代も住んでいます。私も子供のときから、この井戸の水を飲んで育って来たのですよ。」
 今更ではないが「慣れ」ほど怖ろしいものは無いと、わたしはつくづく感じさせられた。しかも満洲の水も「人馬飲ムベカラズ」ばかりではない。わたしが普蘭店《ふらんてん》で飲んだ噴き井戸の水などは清冽《せいれつ》珠《たま》のごとく、日本にもこんな清水は少なかろうと思うくらいであった。

     蛇

 海城の北門外に十日ほど滞留していた時である。八月は満洲の雨季であるので、わが国の梅雨季のように、とかくに細かい雨がじめじめ[#「じめじめ」に傍点]と降りつづく。
 わたしたちの宿舎のとなりに老子《ろうし》の廟があって、滞留の間にあたかもその祭日に逢った。雨も幸いに小歇《こや》みになったので、泥濘《でいねい》の路を踏んで香を献《ささ》げに来る者も多い。縁日商人も店を列《なら》べている。大道芸人の笙《しょう》を吹くもの、蛇皮線《じゃびせん》をひく者、四《よ》つ竹《だけ》を鳴らす者なども集まっている。
 その群れのうちに蛇人《だにん》――蛇つかいの二人連れがまじっていた。おそらく兄弟であろう、兄は二十歳前後、弟は十五、六であるが、いずれも俳優かとも思われるような白面《はくめん》の青年と少年で、服装も他の芸人に比べるとすこぶる瀟洒《しょうしゃ》たる姿であった。
 兄は首にかけている箱から二匹の黒と青との蛇を取出して、手掌《てのひら》の上に乗せると、弟は一種の小さい笛を吹く。兄は何か歌いながら、その蛇を踊らせるのである。踊ると云っても、二匹が絡み合って立つぐらいに過ぎないのであるが、何という楽器か知らないが悲しい笛の音、何という節か知らないが悲しい歌の声、わたしは云い知れない凄愴《せいそう》の感に打たれて、この蛇つかいの兄弟は蛇の化身ではないかと思った。

     雨

 満洲は雨季以外には雨が少ないと云われているが、わたしが満洲に在るあいだは、大戦中のせいか、ずいぶん雨が多かった。
 夏季は夕立めいた雨にもしばしば出逢った。俄雨《にわかあめ》が大いに降ると、思いもよらない処に臨時の河が出来るので、交通に不便を来たすことが往々ある。臨時の河であるから知れたものだと、多寡《たか》をくくって徒渉《としょう》を試みると、案外に水が深く、流れが早く、あやうく押し流されそうになったことも再三あった。何が捕れるか知らないが、その臨時の河に網を入れている者もある。
 遼陽の南門外に宿っている時、宵《よい》から大雨、しかも激しい雷鳴が伴って、大地震のような地響きがするばかりか、真青《まっさお》な電光が昼のように天地を照らすので、戦争に慣れている私たちも少なからず脅《おびや》かされた。

     東京陵

 遼陽の城外に東京陵《トンキンりょう》という古陵がある。昔ここに都していた遼《りょう》(契丹《きったん》)代の陵墓で、周囲には古木がおいしげって、野草のあいだには石馬や石羊の横たわっているのが見いだされる。
 伝えていう、月夜雨夜にここを過ぎると、凄麗の宮女《きゅうじょ》に逢うことがある。宮女は笛を吹いている。その笛の音《ね》にひかれて、宮女のあとを慕って行くものは再び帰って来ないという。シナの小説にでもありそうな怪談である。
 わたしはそれを宿舎の主人に聞きただすと、その宮女は夜ばかりでなく、昼でも陰った日には姿をあらわすことがあると云う。ほんとうに再び帰って来ないのかと念を押すと、そう云って置く方が若い人たちの為であろうと、主人は意味ありげに笑った。
 その笑い顔をみて、わたしも覚った。そんな怖ろしい宮女ならば尋ねに行くのは止めようと云うと、
「好的《ハオデー》」と、主人はまた笑った。[#地付き](昭和7・6
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