俄かに武蔵野の秋を見いだしたかのようにも感じられて、思わずその店先に足を停めるものは子供ばかりではあるまい。楊誠斎《ようせいさい》の詩に「時に微涼あり、是れ風ならず。」とあるのは、こういう場合にも適応されると思う。
夏の夜店で見るから涼しげなものは西瓜《すいか》の截《た》ち売りである。衛生上の見地からは別に説明する人があろう。私たちは子供のときから何十たびか夜店の西瓜を買って食ったが、幸いに赤痢《せきり》にもチブスにもならないで、この年まで生きて来た。夜の灯に照らされた西瓜の色は、物の色の涼しげなる標本と云ってもよい。唐蜀黍《とうもろこし》の付け焼きも夏の夜店にふさわしいものである。強い火に焼いて売るのであるから、本来は暑苦しそうな筈であるが、街路樹などの葉蔭に小さい店を出して唐もろこしを焼いているのを見れば、決して暑い感じは起らない。却ってこれも秋らしい感じをあたえるものである。
金魚も肩にかついで売りあるくよりも、夜店に金魚|桶《おけ》をならべて見るべきものであろう。幾つもの桶をならべて、緋鯉《ひごい》、金魚、目高のたぐいがそれぞれの桶のなかに群がり遊んでいるのを、夜の灯にみると一層涼しく美しい。一緒に大きい亀の子などを売っていれば、更におもしろい。
こんなことを一々かぞえたてていたら際限がない。
心頭《しんとう》を滅却すれば火もおのずから涼し。――そんなむずかしい悟《さと》りを開くまでもなく、誰でもおのずから暑中の涼味を見いだすことを知っている。とりわけて市中に住むものは、山によらず、水に依らずして、到るところに涼味を見いだすことを最もよく知っているのである。
わたしは滅多に避暑旅行などをしたことは無い。
夏の食いもの
ひろく夏の食いものと云えば格別、それを食卓の上にのみ限る場合には、その範囲がよほど狭くなるようである。
勿論、コールドビーフやハムサラダでビールを一杯飲むのもいい。日本流の洗肉《あらい》や水貝《みずがい》も悪くない。果物にパンぐらいで、あっさりと冷やし紅茶を飲むのもいい。
その人の趣味や生活状態によって、食い物などはいろいろの相違のあるものであるから、もちろん一概には云えないことであるが、旧東京に生長した私たちは、やはり昔風の食い物の方が何だか夏らしく感じられる。とりわけて、夏の暑い時節にはその感が多いようである。
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