今日の衛生論から云うと余り感心しないものであろうが、かの冷奴《ひややっこ》なるものは夏の食い物の大関である。奴豆腐を冷たい水にひたして、どんぶりに盛る。氷のぶっ掻きでも入れれば猶さら贅沢《ぜいたく》である。別に一種の薬味として青紫蘇《あおじそ》か茗荷《みょうが》の子を細かに刻んだのを用意して置いて、鰹節《かつおぶし》をたくさんにかき込んで生醤油《きじょうゆ》にそれを混ぜて、冷え切った豆腐に付けて食う。しょせんは湯豆腐を冷たくしたものに過ぎないが、冬の湯豆腐よりも夏の冷奴の方が感じがいい。湯豆腐から受取る温か味よりも、冷奴から受取る涼し味の方が遥《はる》かに多い。樋口一葉《ひぐちいちよう》女史の「にごり江」のうちにも、源七《げんしち》の家の夏のゆう飯に、冷奴に紫蘇の香たかく盛り出すという件《くだ》りが書いてあって、その場の情景が浮き出していたように記憶している。
「夕顔や一丁残る夏豆腐」許六《きょろく》の句である。
ある人は洒落《しゃれ》て「水貝」などと呼んでいるが、もとより上等の食いものではない。しかもほんとうの水貝に比較すれば、その価が廉《やす》くて、夏向きで、いかにも民衆的であるところが此の「水貝」の生命で、いつの時代に誰が考え出したのか知らないが、江戸以来何百年のあいだ、ほとんど無数の民衆が夏の一日の汗を行水《ぎょうずい》に洗い流した後、ゆう飯の膳《ぜん》の上にならべられた冷奴の白い肌に一味《いちみ》の清涼を感じたであろうことを思う時、今日ラッパを吹いて来る豆腐屋の声にも一種のなつかしさを感ぜずにはいられない。現にわたしなども、この「水貝」で育てられて来たのである。但し近年は胃腸を弱くしているので、冬の湯豆腐に箸を付けることはあっても、夏の「水貝」の方は残念ながら遠慮している。
冷奴の平民的なるに対して、貴族的なるは鰻《うなぎ》の蒲焼《かばやき》である。前者《ぜんしゃ》の甚だ淡泊なるに対して、後者《こうしゃ》は甚だ濃厚なるものであるが、いずれも夏向きの食い物の両大関である。むかしは鰻を食うのと駕籠《かご》に乗るのとを平民の贅沢と称していたという。今はさすがにそれほどでもないが、鰻を食ったり自動車に乗ったりするのは、懐中の冷たい時にはやはりむずかしい。国学者の斎藤彦麿《さいとうひこまろ》翁はその著「神代余波」のうちに、盛んに蒲焼の美味を説いて、「一天四海
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