多分に併せ持っているのは、かの虎耳草《ゆきのした》であることを記憶しなければならない。村園にあれば勿論、たとい市中にあってもそれが人家の庭園に叢生《そうせい》する場合には、格別の値いあるものとして観賞されないらしいが、ひとたび鮑《あわび》の貝に養われて人家の軒にかけられた時、俄かに風趣を添うること幾層倍である。鮑の貝と虎耳草、富貴の家にはほとんど縁のないもので、いわゆる裏店《うらだな》に於いてのみそれを見るようであるが、その裏長屋の古い軒先に吊るされて、苔《こけ》の生えそうな古い鮑の貝から長い蔓は垂れ、白い花はこぼれかかっているのを仰ぎ視れば、誰でも涼しいという心持を誘い出されるに相違ない。周囲が穢《きた》なければ穢ないほど、花の涼しげなのがいよいよ眼立ってみえる。いつの頃に誰がかんがえ出したのか知らないが、おそらく遠い江戸の昔、うら長屋の奥にも無名の詩人が住んでいて、かかる風流を諸人に教え伝えたのであろう。
虫の声、それを村園や郊外の庭に聴く時、たしかに幽寂《ゆうじゃく》の感をひくが、それが一つならず、二つならず、無数の秋虫一度にみだれ咽《むせ》んで、いわゆる「虫声満[#レ]地」とか「虫声如[#レ]雨」とかいう境《きょう》に至ると、身にしみるような涼しさは掻き消されてしまう憾みがある。むしろ白日炎天に汗をふきながら下町の横町を通った時、どこかの窓の虫籠できりぎりすの声がひと声、ふた声、土用《どよう》のうちの日盛りにも秋をおぼえしめるのは、まさにこの声ではあるまいか。
秋虫一度にみだれ鳴くのは却って涼味を消すものであると、私は前に云った。しかもその騒がしい虫の声を市中の虫売りの家台《やたい》のうちに聴く場合には、まったくその趣を異《こと》にするのである。夜涼をたずねる市中の人は、往来の少ない幽暗の地を選ばないで、却って燈火のあかるい雑沓《ざっとう》の巷へ迷ってゆく。そこにはさまざまの露店が押し合って列んでいる。人もまた押し合って通る。その混雑のあいだに一軒の虫売りが市松障子《いちまつしょうじ》の家台をおろしている。松虫、鈴虫、草雲雀《くさひばり》のたぐいが掛行燈《かけあんどう》の下に声をそろえて鳴く。ガチャガチャ虫がひときわ高く鳴き立てている。周囲がそうぞうしい為であるかも知れないが、この時この声はちっとも騒がしくないばかりか、昼のように明るい夜の町のまんなかで
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