河下の方へあまり遠く行くなと注意してくれました。承知して、三人は船に乗り込みましたが、私は漕ぐことを知らないので、櫂《かい》の方は両君にお任せ申して、船のなかへ仰向けに寝転んでしまいました。
もう八時頃であろうかと思われましたが、英国の夏の日はなかなか暮れ切りません。蒼白い空にはうす紅い雲がところどころに流れています。両君の櫂もあまり上手ではないらしいのですが、流れが非常に緩いので、船は静かに河下へくだって行きます。云い知れないのんびりした気分になって、私は寝転びながら岸の上をながめていると、大きい栗の梢を隔てて沙翁紀念劇場の高い塔が丁度かの薄紅い雲のしたに聳えています。その塔には薄むらさきの藤の花がからみ付いていることを、私は昼のうちに見て置きました。
船はいい加減のところまで下ったので、さらに方向を転じて上流の方へ遡《さかのぼ》ることになりました。灯の少ないここらの町はだんだんに薄暗く暮れて来て、栗の立木も唯ひと固まりの暗い影を作るようになりましたが、空と水とはまだ暮れそうな気色《けしき》もみえないので、水明かりのする船端《ふなばた》には名も知れない羽虫の群れが飛び違っています。白鳥はどこの巣へ帰ったのか、もう見えなくなりました。起き直って、巻莨《まきたばこ》を一本すって、その喫殻《すいがら》を水に投げ込むと、あたかもそれを追うように一つの白い花がゆらゆらと流れ下って来ました。透かしてみると、それは栗の花でした。
栗の花アヴォンの河を流れけり
句の善悪はさておいて、これは実景です。わたしは幾たびか其の句を口のうちで繰り返しているあいだに、船は元の岸へ戻って来ました。両君は櫂を措《お》いて出ると、私もつづいて出ました。貸船屋の奥には黄いろい蝋燭が点《とも》っています。亭主が出て来て、大きい手の上に船賃を受けとって、グードナイトとただ一言、ぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]に云いました。
岸へあがって五、六|間《けん》ゆき過ぎてから振り返ると、低い貸船屋も大きい栗の木もみな宵闇のなかに沈んで、河の上がただうす白く見えるばかりでした。どこかで笛の声が遠くきこえました。ホテルへ帰ると、われわれの部屋にも蝋燭がともしてありました。
ホテルの庭にも大きい栗の木があります。いつの間に空模様が変ったのか、夜なかになると雨の音がきこえました。枕もとの蝋燭を
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