た。次郎左衛門を乗せた駕籠が大門《おおもん》を出ると、枝ばかりの見返り柳が師走の朝風に痩せた影をふるわせていた。垂れをおろしている駕籠の中も寒かった。茶屋で一杯飲んだ朝酒ももう醒めて、次郎左衛門は幾たびか身ぶるいした。
 初めから相手に足らないやつとは思っていたが、それでも栄之丞を見事に蹴倒してしまったということは、次郎左衛門に言い知れぬ満足を与えた。ゆうべの闇撃《やみう》ち以来、にわかに栄之丞を憎むようになった彼に取っては、殊にそれがこころよく感じられた。八橋が栄之丞を見限ったということが嬉しかった。
「八橋はもうおれの物ときまった」
 それに付けても、彼は八橋を欺《あざむ》いているのが気にかかった。いっそこれから廓へ引っ返して、自分が今の境遇をあからさまに打明けようかとも思ったが、彼はやはり臆病であった。いよいよどん底へ落ちるまでは、あくまでも嘘をつき通していたかった。その三月が来たらどうする。その三月が来るまでに、ふところの金がもう尽きてしまったらどうする。次郎左衛門は努めてそんなことを考えまいとしていた。
 栄之丞を弱いやつだと笑ったおれも、やっぱり弱い奴であった。栄之丞を卑怯な奴だと罵ったおれも、やっぱり卑怯者であった。そう思いながらも、彼は自分を自分でどうすることも出来なかった。歯がゆいような、情けないような、辛いような、こぐらかった思いに責められて、彼は一人でいらいら[#「いらいら」に傍点]していた。
 次郎左衛門はその後も八橋のところに入りびたっていた。暮れから春の七草までに彼は四百両あまりの金を振り撒いてしまった。どこまでも佐野のお大尽で押し通そうという見得《みえ》が手伝って、彼はむやみに金をつかった。自分の内幕を八橋に覚られまいという懸念から、彼はいつもよりも金づかいをあらくして見せた。ほかの客はみんな蹴散らされた。
 栄之丞は踏みつぶしてしまった。ほかの客は蹴散らしてしまった。次郎左衛門は今が得意の絶頂であった。彼は天下を取った将軍のようにも感じた。しかもその肚《はら》の底には抑え切れない寂しさがひしひしと迫って来た。
 芸妓や幇間《たいこ》が囃《はや》し立てて、兵庫屋の二階じゅうが崩れるような騒ぎのあいだにも、彼はときどきに涙ぐまれるほど寂しいことがあった。治六のことが思い出されたりした。元日から七草まで流連《いつづけ》をして、八日の午《ひる》頃に初めて馬喰町の宿へ帰ると、治六は帳場の前に坐って亭主と話していた。
「旦那さま。おめでとうござります」
 治六はもとの主人の前にうやうやしく手をついた。
「お帰んなさいまし」と、亭主も会釈した。
 それらを耳にも掛けないように、次郎左衛門は二階へすたすた[#「すたすた」に傍点]昇って行った。
 さすがに遊び疲れたような心持ちで次郎左衛門はぼんやりと角火鉢の前に坐ると、亭主は自分で土瓶《どびん》と茶碗とを運んで来た。
「松の内もいいあんばいにお天気がつづきました」
 彼は手ずから茶をついで出した。それは治六が帰参の訴訟に来たものと次郎左衛門も直ぐにさとった。彼はわざと苦《にが》い顔をして黙っていると、果たして亭主はそれを言い出した。
「治六さんもしきりに頼んでおります。わたくしも共どもにお詫びをいたしますから、どうか幾重にも御料簡を……」
 次郎左衛門は顔をそむけて聴かないふうをしていた。離れていると何だか寂しいようにも思いながら、顔を見ると彼はやっぱり治六が憎くてならなかった。

     十

 暮れから催していた雪ぞらも、春になってすっかり持ち直したが、それも七草《ななくさ》を過ぎる頃からまた陰《くも》った日がつづいて、藪入り前の十四日にはとうとう細かい雪の花をちらちら見せた。
「今夜も積もるかな」
 栄之丞は夕方の空を仰いで、独りごとを言いながらよそ行きの支度をした。今夜は謡いの出稽古《でげいこ》の日にあたるので、これから例の堀田原へ出向かなければならなかった。本来は一六《いちろく》の稽古日であるが、この十一日は具足開《ぐそくびら》きのために、三日後の今夜に繰り延べられたのであった。
 春とはいっても底冷えのする日で、おまけに雪さえ落ちて来たので、遠くもない堀田原まで行くのさえ気が進まなかったが、約束の稽古日をはずす訳にもゆかないので、栄之丞はいつもよりも早目に夕飯をしまって、一張羅《いっちょうら》の黒紬《くろつむぎ》の羽織を引っ掛けた。田圃は寒かろうと古い頭巾《ずきん》をかぶった。妹がいなくなってから、独り者の気楽さと不自由さとを一つに味わった彼は、火鉢の火をうずめて、窓を閉めて、雨戸を引き寄せて、雨傘を片手に門《かど》を出ようとすると、出合いがしらに呼びかけられた。
「兄《にい》さま」
 傘も持たないで門に立ったのは妹のお光であった。雪はますます強くなって来たらしく、彼女の総身は雪女のように真っ白に塗られていた。
「妹か。今頃どうして来た」
 門に立ってもいられないので、栄之丞はともかくも再び内へ引っ返すと、お光もからだの雪を払ってはいって来た。家の中はもう暗かった。
「兄さま」と、お光は重ねて兄を呼んだ。その声の怪しく顫《ふる》えているのが栄之丞の耳についた。
「なんだ」
 少し不安にもなって来たので、彼は行燈をまんなかに持ち出して灯をとぼした。その灯に照らされた妹の顔は真っ蒼であった。髪もむごたらしく乱れていた。着物の襟も乱れて、袖の八つ口もすこし裂けていた。何か他人《ひと》とむしり合いでもしたのではないかとも思われたので、兄はあわただしく訊いた。
「え、どうした。誰かと喧嘩でもしたのか」
 お光はまだ動悸が鎮まらないらしく、幅の狭い肩をいよいよせばめて、胸を抱えるように畳に俯伏していたが、やがてわっ[#「わっ」に傍点]と泣き出した。
「おい、どうしたんだ。泣いていてはわからない。主人に叱られたのか、朋輩と喧嘩でもしたのか」
 お光は崩れかかった島田をぐらつかせながら頭《かぶり》を振った。彼女はまだすすり泣きの声をやめなかった。
「わたしは稽古に出る先きだ。早く訳を言ってくれ」と、栄之丞も少し焦《じ》れ出した。
「申します。堪忍して下さい」
 彼女が泣きながら訴えるのを聞くと、お光の奉公している三河屋のお内儀《かみ》さんは、よんどころない義理で二十両取りの無尽《むじん》にはいっていた。きょうは代籤《だいくじ》でそれが当ったというので、お光は深川までその金を受取りの使いにやらされた。昼間だから大丈夫だろうが、それでも気をおつけよとお内儀さんは注意した。お光は橋場の寮を出て深川へ行った。
 世話人がいるとか居ないとかいうので、お光はしばらくそこに待たされた。二十両の金をうけ取って深川を出たのはもう七つ(午後四時)さがりで、陰った日は早く暮れかかった。おまけに雪さえちらちら[#「ちらちら」に傍点]と落ちて来たので、お光は小きざみに足を早めて橋場へ帰って来る途中、吾妻橋《あずまばし》の上を渡りかかると、さっきから後を付けて来たらしい一人の男が、ふいに駈けて来てうしろからお光を突き飛ばした。彼女はひと堪まりもなくそこに突んのめると、男はすぐにその手から小さい風呂敷包みを引ったくろうとした。風呂敷には財布に入れた二十両が包んであるので、お光はやるまいと一生懸命に争った。あまりに事が急なので、彼女は救いを呼ぶ間もなかった。
 しばらく挑《いど》み合ったが、かよわいお光は大の男にとても勝つ事はできなかった。男はその風呂敷包みをもぎ取って、取り縋《すが》る彼女を蹴放して本所の方へ逃げてしまった。あいにくの雪で往来も途切れているので、お光が泥坊、泥坊と呼ぶ頃まで誰も救いに来る者はなかった。彼女の泣き声を聞き付けて二、三人の人が駈けつけて来た時には、曲者はとうに姿を隠していた。
「どうしたらよかろう」
 お光は橋の上に泣き伏していた。人びとに慰められて彼女はようよう起ち上がったが、これからどうしていいか判らなかった。二十両といえば大金である。それを奪《と》られましたと言って唯おめおめ[#「おめおめ」に傍点]とは帰られない。彼女は途方に暮れて、橋の欄干に倚《よ》りかかって泣いていた。
「それも災難で仕方がない。早く家《うち》へ帰って御主人に謝まるがいい。決して短気や無分別を起してはいけない」
 もしや川へでも飛び込むかと危ぶんだらしい一人の老人が親切に意見してくれたので、お光は泣きながら欄干を離れた。そうして浅草の方へとぼとぼと歩き出したが、馬道《うまみち》の角まで来てまた立ち停まった。どう考えてもこのまま主人の家へは帰りにくかった。ともかくも兄に相談して、その上で又なんとか仕様もあろうかと、彼女は果敢《はか》ないことを頼みにして、雪のますます降りしきる中を傘もささずに大音寺前へ訪ねて来たのであった。
「困ったことになった」
 栄之丞もその話を聴いて吐胸《とむね》をついた。まだ新参の身、殊に年のゆかない妹がこんな粗相《そそう》をしでかしては、主人におめおめ[#「おめおめ」に傍点]と顔を向けられまい。時の災難とはいいながら飛んだことになったと、彼も同じく途方に暮れてしまった。しかし今さら妹を叱ったとて始まらない。これから主人のところへ妹を連れて行って、よくその事情を話して謝まるよりほかはあるまいと思った。幸いにお内儀さんはいい人でもあり、新参ながらお光に眼をかけてくれるとも聞いているから、こっちが正直に訳を言ってひたすら詫び入ったらば、さのみむずかしいことも言うまいかとも想像された。
「どうも仕方がない。これから橋場《はしば》へ一緒に行って、わたしから主人によく詫びてやろう」と、彼は泣いている妹を励ますように言った。
「そうして、そのお金はどうするのです」と、お光は不安らしく訊いた。
「どうするといって、主人に我慢してもらうよりほかはない。勿論、こっちが償《つぐの》うことが出来ればいうまでもないが、いまの身分で二十両はおろか、十両の工面《くめん》も付こう筈がない、つまりはこっちも災難、主人も災難とあきらめて貰うよりほかはない。さあ、遅くなっては悪い。ともかくも一緒に行こう」
「はい」と、お光はまだ躊躇していた。
 年の若い正直な彼女は、主人に二十両の損をかけるというのが如何《いか》にも済まないことのように思われてならなかった。とても出来ない相談とは知りながら、彼女はどうにかその金の工面は付くまいかと言った。
「いっそ八橋さんに相談して見たら」と、彼女はしまいにこんな事までほのめかした。
 栄之丞は厭な顔をして取り合わなかった。努めて八橋に遠ざかろうとしている矢先きに、こんな相談を彼女のところへ持って行きたくなかった。ここでいつまでも評議をしていても果てしがない。ともかくも主人に逢った上でまた分別の仕様もあろう。案じるよりも産むが易いの譬《たと》えで、思いのほかに主人がこころよく免《ゆる》してくれるかも知れないと言った。
 足の進まないお光を叱るように追い立てて、栄之丞は妹と相合傘《あいあいがさ》で雪の門を出た。兄の袖にしょんぼりと寄り添って、肩をすくめて泣きながら歩いて行くお光のすがたが、兄の眼にはいじらしく見えてならなかった。雪を吹き付ける田圃の風を突っ切って、二人は真っ白になって橋場の寮にたどり着いた。
 主人の方でもお光の遅いのを心配しているところであった。お内儀さんは穏やかな人で、殊に新参ながらお光を可愛がっているので、その話を聴いて一旦は驚いたが、別にお光を咎《とが》めようともしなかった。
「それでも怪我がなくってよかった。なに、あの金が今要るという訳でもないんだから心配するには及びません。阿兄《おあにい》さんもわざわざ御苦労さまでございました」
 この返事を聴いた栄之丞もほっ[#「ほっ」に傍点]とした。お光は嬉し泣きにまた泣いた。
「御主人のお慈悲を仇《あだ》やおろそかに思ってはならないぞ。この上の御恩返しにはせいぜい気をつけて御奉公をしろよ」
 主人の前で妹にくれぐれもこう言い聞かせて、栄之丞は早々に帰った。こんなことで堀田原へ廻るのが非常
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