に遅くなった。殊に雪はまだ降りやまないので、彼がようようそこへ行き着いた頃には、家の遠い弟子などはもう帰ってしまっていた。栄之丞はここでも主人にむかって遅刻の詫びをしなければならなかった。
 それでも妹の一条が案外に手軽く片付いたので、彼もまず安心していると、それから五、六日経って、その夜の雪もようよう消え尽くした頃に、お光が又しょんぼりと訪ねて来て、兄の前に泣き顔を見せた。
「兄さま、くやしゅうございます」
 また何か仕出来《しでか》したのかと栄之丞もうんざり[#「うんざり」に傍点]した。しかしお光が泣きながら話すのを聴くと、それは案外のことであった。
 お光の主人の寮には人形町の本宅から付いて来ているお兼《かね》という年増《としま》の女中があって、それがお虎という飯焚き女を指図して、家内のことを万端とりまかなっている。そのお兼は新参のお光が主人の気に入っているのを少しく妬《ねた》んでいるらしかった。それで今度のことに就いて、彼女はお光になんだか当てつけらしいことを言った。途中で金を奪《と》られたというのは嘘で、貧乏な兄と相談して一と狂言書いたのであろうというようなことを言った。お光にむかって言うばかりでなく、お内儀さんにむかっても内々こんなことを吹き込んだらしい。お内儀さんはその讒言《ざんげん》を取りあげなかったが、それでもお光にむかってこんなことを言った。
「人間はいくら自分が正直にしていても、ひとはとかくに何のかのと言いたがるもんだからね。これからは能《よ》く気をつけておくれよ」
 お光は泣きたいほどに悲しかった。なるほど、自分の兄は貧乏している、自分も貧乏のなかで育った。しかしいい加減の拵え事をして主人の金を掠めようなどという、そんなさもしい怖ろしい心は微塵《みじん》も持っていない。疑いも事にこそよれ、盗人《ぬすびと》同様の疑いを受けては、どうしてもこのままには済まされない。もうこの上はいっそ死んで自分の潔白を見せようと彼女は決心した。死ぬ前にもう一度兄に逢いたいと思って、彼女は今日たずねて来たのであった。勿論、死ぬということはなんにも口へは出さなかったが、その決心の顔色と口ぶりとは兄にも大抵推量された。
「けしからんことだ」
 栄之丞もくやしかった。妹がくやしがるのも無理はないと思った。いくら落ちぶれていても、奉公の妹をそそのかして主人の金を盗み取るほどの人間と見積もられたのは甚《はなは》だ心外である。妹が言うまでもない。それは自分から進んでその潔白を明らかにしなければならないと思った。それにつけても妹の突き詰めた様子が不安でならなかった。
「よし、よし、万事はおれに任せて置け。決して短気を起してはならないぞ。ここでお前がうっかりしたことをすると、あれ見ろ、あいつは悪い事をした申し訳なさに自滅したと、かえって理を以《も》って非に陥るようなことになる。くれぐれも無分別なことをしてくれるなよ」
 彼は噛んでふくめるように妹をさとして、きょうはおとなしく帰っていろ、いずれ改めておれが掛け合いに行くと言い聞かせた。
 こうしてお光を帰して置いて、栄之丞はその翌日堀田原へ出向いて行った。お光はここの主人の世話で三河屋の寮へ奉公するようになったのであるから、その関係上まずここへその事情を明らかに断わって置かなければならないと思ったからであった。
 小身《しょうしん》ながらも武士であるから、堀田原の主人もその話を聴いて眉をしわめた。それは気の毒なことで、御迷惑お察し申すと栄之丞|兄妹《きょうだい》に深く同情した。しかしそれは一種の蔭口に過ぎないので、主人から表向きになんの話があったというでもない。お光に暇を出すと言ったのでもない。女同士の朋輩の妬み猜《そね》みは珍らしくないことで、その蔭口や悪口を取《と》っこにとって、こっちから改めて掛け合いめいたことを言い込むのは、却っておとなげない、穏やかでない。正直か不正直かは長い目で見ていれば自然に判る。まず当分はなんにも言わずに辛抱しているがよかろうと、彼は栄之丞を懇々《こんこん》説いてなだめた。
「なるほど、ごもっともでござります」
 その場はすなおに得心して出たが、栄之丞もまだ若かった。事にこそよれ、兄妹がぐる[#「ぐる」に傍点]になって二十両の金を掠《かす》めたと疑われているらしいのが、どう考えても不快で堪まらなかった。堀田原を出て、途々《みちみち》でもいろいろに考えたが、やはり一応は主人に逢って自分たちの潔白を証明して置く方がいい。それが妹の後来《こうらい》のためであるとも考えたので、彼は堀田原の主人の意見にそむいて橋場の寮へ足を向けた。
 案内を乞うと、お光が取次ぎに出て来た。
「兄さま。いいところへ……。もう少し前からお店《たな》の旦那さまがお出《い》でになりまして……」
「そうか。それは丁度いい。兄がまいりましたと取次いでくれ」
「あの、旦那さまが……」と、お光は少し言い渋っているらしかった。
「旦那がどうした」
「わたくしに暇を出すようにと、お内儀さんに言っているようで……」
 お光の声は陰って、その眼にはもういっぱい涙を溜めていた。
「なに、お前に暇を出す……」
 栄之丞も赫《かっ》となった。妹に暇をくれるという以上は、やはり我々を疑っていると見える。奇怪至極のことである。いよいよ打っちゃっては置かれないと思った。
「それならば猶更のことだ。早く主人に逢わせてくれ」

     十一

 栄之丞は奥へ通されて、三河屋の主人に逢った。主人は四十以上の穏やからしい人物であった。栄之丞の話を聴いて彼は気の毒そうな顔をしていた。
「いや、それは御迷惑お察し申します。わたくしの方でも決して妹御《いもとご》に疑いをかけるの何のという訳ではございません。申せばこれも双方の災難で致し方がございませんから、どうか御心配のないように願います」
 こう言われて見ると、栄之丞の方でも取ってかかりようがなかった。そのうちに女房も出て来て、同じく気の毒そうに言い訳をした。自分たちも決してお光を疑ってはいない、お光の正直なことは自分たちも知っている、たとい誰がなんと言おうとも必ず気にかけてくれるなと繰り返して言った。こうなると、栄之丞はいよいよ張合い抜けがした。
「妹もなにぶん不束者《ふつつかもの》でございますから、この末ともによろしくお願い申します」
 お光が死ぬの生きるのという問題も案外にたやすく解決して栄之丞もまず安心した。それから主人夫婦と差しむかいで世間話などを二つ三つしているうちに、主人は言いにくそうにこんなことを言い出した。それはお光が追剥ぎに奪《と》られた二十両の損害の半額を償《つぐな》えというのであった。
 災難とあきらめるという口の下から、こんなことを言い出すのは甚だ異《い》なように聞えるかも知れないが、自分の店の掟《おきて》として、すべての奉公人が金を落したり奪られたり、あるいは勘定を取り損じたりしたような場合には、その過怠《かたい》として本人または身許引受人から半金を償わせることになっている。勿論、それは主人の方へ取りあげてしまう訳ではない。ともかくも一旦あずかって置いて、その本人が無事に年季を勤めあげた場合に、いっさい取りまとめて戻してやる。但し年季ちゅうに自儘《じまま》に店を飛び出したり、あるいは不埒を働いて暇を出されるような場合には、その金は主人の方へ没収されてしまうことになる。ちっと無理かも知れないが、自分の店では代々その掟を励行しているのであるから、今度のお光の場合にもそれを適用しない訳にはいかない。その事情を察して、どうかここで半金の十両だけをひとまず償ってくれまいかと、主人はひどく気の毒そうに話した。
 女房もそばから口を添えて、何分これが店じゅうの者にも知れ渡ってしまったのであるから、お光一人のためにこの掟を破ると他の者の取締まりが付かない。依怙贔屓《えこひいき》をするなどという陰口もうるさい。そこで、失礼ながらそちらの都合が悪ければ、こっちで内所《ないしょ》で立て替えて置いてもいいから、表向きは本人または身許引受人が償ったていにして、この一件の埒をあけてくれろと頼むように言った。
 もともとこっちの過失であるから、全額をつぐなえと言われても仕方がない。それを半額に負けてやる、年季が済めば返してやる、そっちの都合が悪ければこっちで立て替えてやると言う。これに対して栄之丞はなんとも言い返す言葉はなかった。彼はすなおに承知した。
 しかし年の若い彼としては、主人夫婦に対して一種の見得《みえ》があった。主人の要求を承知すると同時に、この半額の金はなんとか自分の手で都合しなければならないと思った。いくら相手が親切に言ってくれても、さすがにその金までを立て替えてくれと厚かましくは言い出しにくかった。その金はこっちでなんとか都合して、主人に渡さなければ、妹も定めて肩身が狭かろうとも思った。妹が可愛いのと、自分の痩せ我慢とが一つになって、栄之丞はあてもない金の工面《くめん》をとうとう受け合ってしまった。
「お話はよく判りました。いずれ両三日ちゅうに十両の金子を持参いたして、あらためてお詫びの規模を立てましょう」
 帰りぎわにお光を門口《かどぐち》へ呼び出して、栄之丞はこの事をささやいて聞かせると、妹の顔色はまた陰った。
「でも、兄さま。そのお金は……」
「心配するな。なんとかするから」
 口では無雑作《むぞうさ》に言っているが、今の兄の身分では、十両はさておいて五両の工面もむずかしいことを、お光はよく知っていた。不安らしい彼女の眼にはもう涙がにじんでいた。
「なに、金は湧き物で、又どうにかなるものだ。わたしに任せて置け」
「八橋さんのところへでもお出でになりますか」と、お光はそっと訊いた。差しあたってはそれよりほかに工夫はあるまいと彼女は思いついた。
 栄之丞は黙って考えていた。
「もし兄さまからお話しがなさりにくければ、わたくしから手紙でもあげましょうか」
「それにも及ぶまい。どっちにしても何とか埒をあけるからくよくよ[#「くよくよ」に傍点]するな。胸に屈託《くったく》があると粗※[#「※」は「つつみがまえ+夕」、読みは「そう」、115−9]をする。奉公を専一に気をつけろ」
 春の寒い風が兄妹のそそけた鬢《びん》を吹いて通った。
 妹に別れて栄之丞は南の方へ小半町《こはんちょう》も歩き出したが、彼の足はにぶり勝ちであった。まったくお光の言う通り、いくら立派そうな口を利いても今の栄之丞に十両の才覚はとても出来なかった。彼は吉原へ行くよりほかはないと思いながらも、その決心が付かなかった。つとめて八橋と遠ざかりたいと念じている矢先きへ、又こんな新しい関係を結び付けて、逃げることのできない因果のきずなに、いよいよ自分のからだを絞めつけられるのに堪えなかった。
「ほかに工夫はないか知ら」と、彼は歩きながら考えた。
 ちっとばかりの親類は、みんなもう出入りの叶わないようになっていた。堀田原の主人とても小身で、余事はともあれ、金銭づくの相談相手にならないのは判り切っていた。吉原へ行くよりほかはない、いやでも八橋のところへ行って頼むよりほかはない。栄之丞も絶体絶命でそう決心した。
 去年の暮れに次郎左衛門が不意に押しかけて来て、八橋が身請けのことを頼んで行った。その場は栄之丞もおとなしく受け合ったが、相手の要求があまり手前勝手で、むしろ自分を踏みつけにしたような仕方であるので、彼は内心不満であった。二つには八橋に逢いに行くということが億劫《おっくう》であるので、栄之丞は自分から進み出てその話を取り結ぼうとする気にもなれなかった。そのままに捨てても置かれまいと思いながらも、松の内は無論くるわへは行かれなかった。松を過ぎても一日延ばしにきょうまで投げやって置いたのであった。
 思えばいっそいい機会であるかも知れない。この話を兼ねて八橋に逢いに行こうと彼は決心した。彼はすぐに向きを変えて、寺の多い町から山谷《さんや》へぬけて、まっすぐに廓へ急いで行った。
「栄之丞さん、お久
前へ 次へ
全14ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング