なと栄之丞は思った。そうして、胸のうちでその返事の仕様をあれかこれかと臆病らしく考えていた。
「実はわたくしには身請けの金がないのです」と、次郎左衛門は思い切って言った。
少し拍子抜けがした気味で、栄之丞は相手の顔をぼんやりと眺めていた。
「わたくしはもう昔の次郎左衛門ではございません」
身代をつぶして故郷の佐野を立ち退いて来たことを彼は残らず打明けた。
そこで、ふところに金のある間は今までの通りに華やかな遊びをして、金がなくなったら又なんとか考えようと、たった今までは平気で落ち着いていたが、なんだか急に心寂しくなって、どうもこの儘《まま》ではいられないような不安な心持ちになって来た。といって、わたくしが八橋を請け出すことになれば、どうしても千両以上の金がいる。その金はない。しかしお前さんから八橋に話をして、お前さんが請け出すという事になれば、親許身請けとでも何とでも名をつけて、その半額か或いは五百両|下《した》で埒が明くことと思われる。わたくしは今ここに遣い残りの金を六百五十両ほど持っているから、みんなそれをお前さんに差し上げる。お前さんの掛け合い次第で、五百両で身請けができれば百五十両、四百両で話がまとまれば、二百五十両、その残りの金はみんなお前さんに差し上げるから、どうか八橋と縁を切ってもらいたい。むかしの次郎左衛門ならば、そんなさもしいことは言わない。千両箱を積んで八橋を請け出して、お前さんの眼の前にも手切れ金の四百両、五百両をならべて見せるが、それが出来ない今の身の上となっては、こんな手前勝手なことを言うよりほかはない。どうか悪しからず思ってくれと、彼は頼むように言った。
次郎左衛門が自分にむかってこんなことを言い出すのはよくよくのことであろうと、栄之丞は気の毒でもあり、薄気味悪くもなって来た。実をいえば、自分も八橋を次郎左衛門に譲り渡して、その係り合いをぬけたいと考えている折柄であるから、八橋さえ納得すればそうしてもいいと彼は素直に考えた。たとい多少の不満足があるとしても、この場合、彼は眼のまえで次郎左衛門に反抗する力はなかった。
そこで、彼はこう答えた。
「お話はよく判りました。出来ることやら出来ないことやら確かには判りませんが、身請けの儀は早速相談いたして見ましょう。但しその余分の金は、いかほどであろうとも手前が頂戴いたすわけには参りませんから、それは前もってお断わり申しておきます」
「ごもっともでございます。それはその時に又あらためて御相談をいたしましょう。まことに我儘《わがまま》なことばかり申し上げて相済みません」
まったく我儘な申し分であった。自分が身請けをしたいのであるが、それだけの金がないから、お前の方から金のかからないように請け出してくれ。そうして、女はこっちへ渡せというのである。それも本当の親兄弟か親類ならば格別、その女の情夫ということを承知の上で頼むのである。栄之丞としては見くびられたとも貶《おと》しめられたとも、言いようのない侮蔑《ぶべつ》を蒙《こうむ》ったように感じた。
それでも彼は争わなかった。争っても勝てないのを自覚しているのと、これまでこの人を欺《だま》していたのが、なんだか怖ろしいようにも思われるのと、この二つが彼の不満をおさえ付けて、容易に頭をもたげさせなかった。彼は忠実な奴僕《しもべ》のように次郎左衛門の前にひれ伏してしまった。
浅草寺《せんそうじ》の五つ(午後八時)の鐘を聴いてから、次郎左衛門は暇を告げて出た。出るとやはり吉原が恋しくなった。
彼は大音寺前の細い路をつたって、堤《どて》の方へ暗いなかを急いで行った。
威勢のいい四手《よつで》駕籠が次郎左衛門を追い越して飛んで行った。その提灯の灯が七、八間も行き過ぎたと思う頃に、足早に次郎左衛門の後をつけて来た者があった。と思うと、抜打ちの太刀風に彼は早くも身をかわした。武芸の心得のある彼は路ばたの立ち木をうしろにして、闇《やみ》を睨んで叫んだ。
「人違いでございましょう」
まったく人違いであったのか、あるいはこっちに心得があると思ったためか、相手は無言で刃《やいば》を引いて、もと来た方へ一散に駈けて行ってしまった。
九
次郎左衛門を驚かしたのは、そのころ折りおりに行なわれる辻斬りであった。意趣《いしゅ》も遺恨《いこん》もない通りがかりの人間を斬り倒して、刀の斬れ味を試すという乱暴な侍のいたずらであった。一刀で斬り損じるか、もしくは相手が少し手ごわいと見れば、すぐに刃を引いて逃げるのが彼等の習いであった、次郎左衛門もそれを知っていた。
「辻斬りか、栄之丞か」
彼は立ち停まって考えた。しかし場合が場合だけに、彼は栄之丞を疑った。うわべは素直に何もかも承知しておいて、あとから付けて来ておれを闇撃《やみう》ちにする――どうもそれらしく思われてならなかった。
もともと今夜の相談は自分の方が少し無理である。無理は自分も万々承知している。しかし無理ならば無理で、なぜ面とむかって不承知を言わない。おとなしそうな顔をして万事呑み込んでおきながら、暗い所でおれを亡《な》い者にしようとする。どう考えても面白くない奴だ。弱い奴だ、卑怯な奴だ、憎い奴だと、次郎左衛門は腹立たしくなった。
「よし、これからもう一度引っ返して行って、あいつの素《そ》っ首を叩き落してやろう」
彼はむらむら[#「むらむら」に傍点]として、ふた足三足行きかけたが又かんがえた。あんな意気地のない奴でも人ひとりを殺せば、こっちも罪をきなければならない。罪人になったら八橋にも、もう逢えまい。こう思うと彼の張り詰めた気もまたくじけた。忌々《いまいま》しいが我慢する方が無事であろう、打っちゃって置いたところで、あんな意気地なしがこの後なにをなし得るものでもないと、彼は多寡をくくって胸をさすった。
真っ暗な枯れ田の上を雁が啼《な》いて通った。ここらへ来ると、夜風が真っ北から吹きおろして来て、次郎左衛門は顫《ふる》えあがるほど寒くなった。つい目の前の廓では二挺鼓《にちょうつづみ》の音が賑やかにきこえた。次郎左衛門はもう何も考えずに、まっすぐに吉原の方へむいて行った。
いつもの通りに立花屋から送られて、彼は兵庫屋の客となった。その晩、座敷が引けてから次郎左衛門は八橋になにげなく訊いた。
「栄之丞さんはこの頃ちっとも見えないのか」
「ちっともたよりはありんせん」と、八橋は冷やかに答えた。
「なぜだろう」
「なぜか知りんせんが、あんな不実な人はどうなっても構いいせん」と、八橋はさらに罵《ののし》るように言った。
親身の従弟《いとこ》と思えばこそ、自分もこれまでに随分面倒も見てやった。それにこの頃は何のたよりもしない、顔も見せない。あんな不人情な人はどうなっても構わない、一生逢わないでも構わないと、八橋はさもさも見限ったように言った。嘘とほんとうが半分ずつまじっているこの話を、次郎左衛門は一種の興味をもって聴いていた。
それからだんだん捜《さぐ》りを入れて見ると、八橋はまったく栄之丞に愛想をつかしているらしく思われた。あんな不実な奴はどうなっても構わないと、本当に思っているらしかった。
そこへ新造の浮橋が来て、今夜はどうして治六を連れて来ないかと訊いた。あいつは勘当したと次郎左衛門は正直に答えると、二人の女は黙って顔を見合せていた。治六の噂がいとぐちになって、又ぞろゆうべの身請けの話が出た。
「三月になると国へ一度帰る。そうして、金を持って来るから待ってくれ」
次郎左衛門もよんどころなしに一時のがれの嘘を言った。浮橋が出て行ったあとで、八橋は急に泣き出した。
「堪忍しておくんなんし」
今までお前を欺していたが、栄之丞は自分の従弟《いとこ》ではない、実は自分の情夫《おとこ》であるということを、八橋は泣いて白状した。いくらこっちでばかり親切を運んでも、むこうではなんとも思ってくれないで、この頃はなるたけ逃げようとしている。現に達者で雷門を歩いていながら、病気だといって廓へは寄り付かない。そんな不人情な男はわたしもすっぱりと思い切った。あきらめてしまった。さてそうなると、こうして廓にいてもなんの望みもない、楽しみもない、一日も早く苦界《くがい》をぬけたい。今のわたしが杖柱《つえはしら》と取りすがるのは、お前ばかりである。一つには不実な男の顔を見返すためと、二つには廓の苦を逃がれるために、どうぞわたしを請け出してくれと、彼女は繰り返して頼んだ。
「今まで欺していたのが憎いと思いんすなら、請け出して三日でも女房にした上で、突くとも斬るとも勝手にしておくんなんし」
彼女は次郎左衛門の前にからだを投げ出した。栄之丞のことはとうの昔から承知しているので、今この白状を聴いても次郎左衛門は別に驚きもしなかった。むしろ八橋の口からこの正直な白状を聴いたのをこころよく思った。よく白状してくれたと嬉しく思った。しかも悲しいことには、今の自分にはその願いを肯《き》き入れるだけの力がない。千両に足りない金で八橋のからだをどうすることも出来ないのは判り切っていた。
「八橋も白状した。おれも男らしく白状しようか」
相手が正直に何もかも白状した上は、自分も今の身の上を正直に白状すべきである。折角の頼みではあるが、今の次郎左衛門としてはお前をどうすることも出来ないと、彼は正直に打明けなければならないと思った。しかし彼は自分でも歯がゆいほどに男らしくなかった。女の前で宿なし同様の今の身分を明かすのは如何にも辛かった。彼の胸の底には、やはり佐野のお大尽で押し通していたいという果敢《はか》ない虚栄《みえ》があった。
「治六がゆうべどんなことを言ったのだ」と、彼はまた捜りを入れた。
あるいは無考えの治六めが今の境界をべらべらしゃべっているのではないかという不安もあった。八橋の口ぶりによると、治六もさすがにそんなことは口外しなかったらしく思われたので、次郎左衛門もまず安心したが、それにしても乗りかかった舟の楫《かじ》を右へも左へも向けることは出来なかった。彼はどこまでも嘘で押し通すよりほかはないので、苦しいながらも前の誓い――偽りの誓いをまた繰り返した。
「さっきもいう通り、来年の三月には国へ帰って身請けの金を持って来る」
「ほんとうざますか」
「嘘はつかない」
次郎左衛門は息が詰まるほどに苦しくなった。今までは八橋が自分をだましていたのであるが、今は自分が八橋をだましているのである。だまされている身よりも、だましている身の方がどのくらい切《せつ》ないか判らないと、彼はつくづく情けなくなった。彼は夜の明けないうちに逃げ出したくなって来た。
八橋の方では容易に帰そうとはしなかった。彼女は全く栄之丞を見捨てた証拠だといって、掛守《かけまもり》の中から男の起請《きしょう》を出して見せた。
「この通り、よく見ておくんなんし」
彼女はその起請をずたずた[#「ずたずた」に傍点]に引き裂いて、行燈の火にあてると、紅い小さい焔がへらへら[#「へらへら」に傍点]と燃えあがった。彼女は更にその火を枕もとの手あぶりに投げ込むと、焔《ほのお》はぱっと大きく燃えて、見る見るうちに薄白い灰となった。
恋の果てはこうしたものかと思うと、次郎左衛門はなんだか果敢ないような心持ちにもなった。それと同時に子供が蟻《あり》やみみずを踏み殺した時のような、一種の残忍な愉快と誇りを感じた。弱い栄之丞はおれの足の下に踏みにじられてしまったのだと思った。
その灰の中から栄之丞の蒼白い顔が浮き出したかのように、八橋は眼を据えて煙りのゆくえをじっと見つめていた。彼女の顔も物凄いほどに蒼白かった。やがて彼女は次郎左衛門の方をしずかに見かえった。二人は黙ってほほえんだ。
あくる朝、次郎左衛門が帰る時にも、八橋は茶屋まで送って来て、身請けのことをくれぐれも頼んだ。
「ほんとうざますか」と、彼女はここでも念を押した。
「嘘はつかない」と、次郎左衛門も同じ誓いをくりかえして別れた。
仲の町には冬の霜が一面に白かっ
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