うに哮《たけ》って、自分の縄張りを荒らした相手に食ってかかるに相違なかった。彼は得意の剣術を役に立てて、相手と命の遣り取りをしたかも知れなかった。しかし彼の性質はこの春以来まったく変っていた。
 彼が性格のいちじるしく変化したことは、佐野屋で一緒に起き臥《ふ》ししていた治六にもよく判っていた。虎はいつか猫に変って、彼のおそろしい爪も牙《きば》も見えなくなってしまった。彼は誰にも叱言《こごと》一ついわないようになった。彼は薄気味の悪いほどにおとなしくなった。その理由は治六にも判らなかったが、ともかくも吉原がよいを始めてから、主人の性質がこう変ったということだけは容易に想像された。
「まあ、まあ、打っちゃって置け」と、次郎左衛門は子分どもを却ってなだめていた。
 自分の縄張りを踏み荒らされても、指をくわえて黙っている次郎左衛門のなまぬるい態度が子分どもの気に入らなかった。かれらは歯がゆく思った。親分を意気地なしと卑しんだ。折角踏みとどまっていた少数の子分もみんな失望して散った。さらでも孤立の次郎左衛門は、いよいよほんとうの一本立ちになってしまった。彼の影はいよいよ寂しくなった。
「いっそ、
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