なかったのである。治六が下へ降りて来たのをつかまえて、亭主は不安らしくまた訊いた。
「旦那はまた長逗留かね。お家《うち》の方はどうなっているんだろう」
「いや、もう、お話にならねえ」と、治六は帳場の前にぐたりと坐って馬士《まご》張りの煙管《きせる》をとり出した。彼の父も次郎左衛門の家《いえ》の作男《さくおとこ》であったが、彼が四つの秋に両親ともほとんど同時に死んでしまったので、みなし児の彼は主人の家に引き取られて二十歳《はたち》の今年まで養われて来た。侍でいえば譜代《ふだい》の家来で、殊に児飼《こが》いからの恩もあるので、彼はどうしても主人を見捨てることはできない因縁《いんねん》になっていた。
「実をいうと、佐野のお家《いえ》はもう駄目だ。とうとう押っ潰《つぶ》れてしまったよ」と、治六は悲しそうな眼をしばたたいた。
亭主はしばらく黙って、旅疲ればかりではないらしい彼の痩せた顔を見つめていた。
「お家が潰れた」と、亭主は呆れたように言った。「いつ、どうして……。この前に見えた時にはちっともそんな話はなかったが……」
「なに、あのときにも内々覚悟はしていたのだが、この秋になって急にばたば
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