この方が旦那のためになるかも知れねえ」と、治六はひそかに喜んだ。
 縄張りは人に奪《と》られ、子分はみんな散ってしまう。次郎左衛門はもう博奕打ちとしては世間に立てなくなったのである。それをしおに料簡《りょうけん》を切り替えて、もとの堅気の百姓に立ちかえれば、本人も家《いえ》も安泰である。そう祈っているのは治六ばかりでなく、分家の人たちもみんな同じ望みをもっていた。
 次郎左衛門は果たして博奕打ちをやめた。喧嘩もやめた。今までは奉公人まかせにしておいた帳簿などを自分で丹念に検《あらた》めて、ついぞ持ったことのない十露盤《そろばん》などをせせくるようにもなった。彼は純な百姓生活にかえって、土の匂いに親しんだ。
 それを聞いて、足利の姉は再び涙を流してよろこんだ。彼女《かれ》はここで弟に相当の嫁を持たせて、いよいよしっかりと彼と家とを結び付けようと試みたが、それは全く失敗に終った。余事は格別、縁談に就いて彼は誰の相手にもならなかった。
 明くる年の春は来た。田面《たづら》の氷もようやく融《と》けて、彼岸の種|蒔《ま》きも始まって、背戸《せど》の桃もそろそろ笑い出した頃になると、次郎左衛門はそわそわして落ち着かなくなった。彼は蔵に積んである米や麦を売って、あらん限りの金をふところに押し込んで、再び江戸見物にのぼった。ことしも治六が供をして出た。
 吉原は去年にまして賑わっていた。年々栽《う》え替えられる桜にも去年の春の懐かしい匂いが迷っていた。
 次郎左衛門は今年も立花屋から送られて、大兵庫屋の客になった。彼は八橋に二百両の土産をやった。そうして、ことしも春から夏の終りにかけて百日ほども遊んで帰った。
「いくらお大尽さまでも、ちっと道楽が過ぎましょう」と、佐野屋の主人は二年越しの遊蕩に少しく顔をしかめていた。治六は喧嘩づらで急《せ》き立てて、ことしも盆前にひとまず国に帰ることになった。帰る時に次郎左衛門は宿の亭主に言った。
「ことしの内にまた来るかも知れません」
「お急ぎの御用があれば格別、今年はまあ在所《ざいしょ》に御辛抱なすって、また来春お出でなさいまし」と、亭主は言った。
 次郎左衛門は唯にやにや[#「にやにや」に傍点]笑いながら草鞋《わらじ》の紐を結んで出た。それが果たして今年の内に出直して来た。しかも佐野屋[#「佐野屋」は「佐野」の誤記か]の家は潰れてしまったというのであった。亭主も夢のように思われてならなかった。
「なにしろ、もう七、八年前から身代《しんだい》も痛み切っていたところへ、去年も吉原で二千両ほども遣う。ことしもそれに輪をかけて三千両ほども撒き散らす。それじゃあとても堪《たま》らねえ」と、治六は投げ出すように言った。「去年江戸から帰ってすっかり堅気になって辛抱しなさるようだったから、まあいい塩梅《あんばい》だとわしらも喜んでいたんだが、なあに、やっぱり駄目なことさ。おまけに今年の秋は八朔《はっさく》と二百|十日《とおか》と二度つづいた大暴《おおあ》れで田も畑もめちゃめちゃ。こうなったら何も悪いことだらけで……。それにわしらが知っているのも知らねえのもあったが、田地のいい所は四、五年まえから大抵よそへ抵当《かた》にはいっている。それが四方から一度に取り立てに来たんだから、いやもう埒《らち》はねえ」
「それで大家《たいけ》もばたばた[#「ばたばた」に傍点]と没落したんだね」と、亭主は深い溜め息をついた。
「それでも足利のおあねえ様や分家の手合いが寄り集まって、何とか埒《らち》をあけることに苦労しているんだが、どうも右から左に纏《まと》まりそうもねえ。つまり、旦那は自分の身上《しんしょう》をみんな投げ出して、親類の人たちにあとの始末をいいように頼んで、空身《からみ》で生まれ故郷を立ち退くことになったのさ。空身といっても千両ほどの金をもっている。それを元手に江戸で何か商売でも始めるつもりだから、この後もまあよろしく願いますよ」
「千両……。古河《ふるかわ》に水絶えずだね」と、亭主は感心したように言った。「それだけの元手がありゃあ、江戸でどんな商売でもできますよ。千両はさておいて、百両あっても気強いものさ」
 二階で治六を呼ぶ声がきこえるので、彼はそそくさと煙管《きせる》をしまって起《た》ちあがった。

     二

 暗い行燈《あんどう》の前で、次郎左衛門は黙って石町《こくちょう》の四《よ》つ(午後十時)の鐘を聴いていた。治六は旅の疲れでもう正体もなく寝入ってしまったらしいが、彼の眼は冴えていた。彼は蒲団の上に起き直って、両手を膝に置いてじっと考えていた。師走の江戸の町には、まだ往来の足音が絶えなかった。今夜の霜の強いのを悲しむように、屋根の上を雁《がん》が鳴いて通った。
 次郎左衛門も今夜はすぐに吉原へ行かなかった。
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