あしたは月代《さかやき》でもして、それから改めて出かけるつもりであった。もう再び故郷の佐野へは帰らない。江戸に根を据えてしまう覚悟であるから、さすがに一夜を争うにも及ばないと思った。勿論、八橋が恋しいには相違なかった。それでも今年もう三十一になる次郎左衛門は、なま若いものと違って、幾らか落ち着いたところもあった。彼はおとなしくあしたを待っていた。
ちらちらと揺れる行燈の灯を見つめて、彼は自分の過去を静かに考えた。十六の年から博奕場に足を入れて、二十歳《はたち》で父に別れたのちは、博奕と喧嘩で彼は十幾年の月日を送った。そのあいだに妾を置いたこともあったが、それは自分の手廻りの用をさせるのにとどまって、それから温かい愛情を見いだそうなどとは思いも付かなかった。彼は手綱《たづな》の切れた暴馬《あれうま》のように、むやみに鬣毛《たてがみ》を振り立てて狂い廻っているのを無上の楽しみとしていた。彼は自分の野性を縦横無尽に発揮して、それを生き甲斐のある仕事と思っていた。
それが去年の春からがらりと変った。自分でも不思議に思うほどに変ってしまった。それは八橋から唯ひとこと、こう言われたからであった。
八橋があるとき彼の商売を訊くと、彼は野州佐野の博奕打ちで、三、四十人の子分を持っていると自慢らしく答えた。すると、八橋はにやり[#「にやり」に傍点]と笑った。
「ほかにもいろいろの渡世《とせい》がありんしょう。喧嘩商売、よしなんし。あぶのうおざんす」
なるほど危ない商売には相違なかった。博奕打ちに喧嘩は付き物である。次郎左衛門はその命賭けの危ないなかに興味を求めていた。世間にはほかにいろいろの渡世があることも、喧嘩商売のあぶないことも、いまさら八橋の意見を聞くまでもなかった。そんなことは足利の姉からも、分家の人びとからも耳うるさいほどに聞かされていた。
「あぶのうおざんす」
この一句が今夜はふかく彼の胸に食い入った。相手はどれほどの親切気で言い聞かしたのか知れないが、次郎左衛門は心からその親切を感謝した。自分の生命《いのち》を賭けるような危ない商売はもうふっつりと思い切ろうと女に誓った。
「今度来るときには堅気の百姓で来る」
彼はその約束を忘れなかった。盂蘭盆まえに国に帰ると、もとの百姓生活に立ちかえる準備に取りかかった。しかし、もう遅かった。いわゆる喧嘩商売で幾年も送った禍いは、彼の身代の大部分を空《から》にしていた。いくら帳簿を整理しても十露盤をはじいても、いまさら療治のできるような浅い手疵《てきず》ではなかった。殊に今までの喧嘩商売を離れてから、彼の頭はぼんやりして来た。アルコール中毒の患者から酒を奪ったように、彼は活動の力を失った。おとなしくなった、堅気になったとよそ目に見えるのも、噴火山が死火山に変りつつあるというに過ぎなかった。彼としては、むしろ一種の衰えであった。
彼はその衰えを自覚しないほどに八橋にあこがれていた。そうして、約束通りに堅気の百姓になって、ことしの春ふたたび吉原へ来た。その話を聞いて、八橋は又こう言った。
「よく気を入れ替えなんした。人間は堅気に限りいす」と、彼女《かれ》は身につまされたように言った。
その深い意味は判らなかったが、女に褒められた次郎左衛門は子供のように嬉しがった。
しかし、その百姓生活を長く営むことを許されなかった。彼が今年の盆に国に帰ってから後、いろいろの禍いがそれからそれへと落ちかかって来た。彼は一家の後始末を親類に頼んで故郷を立ち退《の》くよりほかはなかった。彼は江戸へ出て、何か生きてゆく方法を考えなければならなかった。彼はさらに百姓から商人に変らなければならなかった。それにしても急ぐことはない、まず暮れから正月は吉原でおもしろく遊んで、それから佐野屋の亭主とも相談して、なんとか相当の商売を見つけ出そうと考えていた。彼のふところには千両の金があった。
「旦那さま。まだお寝《やす》みなさらねえのでごぜえますかえ」
治六は寝返りを打って、衾《よぎ》の中から主人に声をかけた。
「天井でえらく鼠がさわぐので、眼が醒めてしまいました」と、彼はまた言った。
今までは気がつかなかったが、低い天井には鼠の駈けまわる音がおびただしく聞えた。次郎左衛門も無言で天井を仰いだ。
「旦那さま。おめえさま何か考えているんじゃごぜえませんかね。道中では毎晩よく眠らっしゃるのに、どうして今夜は寝ねえんだね。もう江戸へへえったから、ゆっくりと手足が伸ばせる筈だが……」と、治六は半分起き返って言った。「おめえさま。あしたの晩に吉原へ行くつもりかね」
「むむ。午前《ひるまえ》に髪月代でもして、午《ひる》過ぎから行くつもりだ。一緒に来い」
治六は黙っていた。
「いやか」と、主人は少し面白くない顔をして苦笑いを
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