した。
「おめえさまも止したらどうだね。いや、行くなじゃあねえが、まあ当分は……。ともかくもここの御亭主と相談して、何か商売の道を立てて、自分たちの身分を決めた上で、それから行っても遅くはあるめえと思うが……」
今度は次郎左衛門の方が黙っていた。
「佐野の家をぶっ潰して唯ぼんやり江戸へ出て来たじゃあ、吉原へ面《つら》を出しても幅が利くめえから、なんとかこっちの身分を立てて、さて今度はこういうことにしたと、誰にも話のできるようにしてから大手を振って行く方がよかろうと思うが、どうでごぜえますね」
「まあ、いい。そんなことはあしたの話にして、今夜はお前も寝ろよ。おれももう寝る」と、次郎左衛門は相手にならずに衾《よぎ》をかぶろうとした。
主人が寝ると、家来があべこべに起き直った。
「いや、こんな事は今のうちにしっかり決めて置くがいい。わしはさっきから寝た振りをしておめえさまの様子を見ていたが、何をそんなに考げえていなさるね。聞かねえでも判っていると言うかも知れねえが、もし、旦那さま。江戸へ出るまではなんにも言うめえと思って、道中でも口を結んでいたが、あの吉原の女はおめえさまに隠して情夫《おとこ》を持っているんでごぜえますよ」
去年の春は治六もちっとも気がつかなかったが、ことしの春になって彼はその噂を聞き出した。八橋には若い浪人者の馴染みがあって、起請《きしょう》までも取り交した深い仲である。治六はそれを主人に注意しようと幾たびか思ったが、確かな証拠もなしにそんなことを訴えたところで、とても取り合ってくれる気遣いもないと考えたので、今まで一度も口に出さなかったのであった。
彼は今夜初めてその秘密を洩らした。
三
八橋の男に宝生栄之丞《ほうしょうえいのじょう》という能役者《のうやくしゃ》あがりの浪人者があった。両親《ふたおや》に死に別れてから自堕落《じだらく》に身を持ち崩して、家の芸では世間に立っていられないようになった。妹のお光《みつ》と二人で下谷《したや》の大音寺《だいおんじ》前に小さい家を借りて、小鼓指南《こづつみしなん》という看板をかけていたが、弟子入りする者などほとんど一人もなかった。八橋は素人《しろうと》の時から栄之丞を識っていた。廓《くるわ》へはいって栄之丞を客にするようになってから、二人の親しみはいよいよ細《こま》やかになって来た。
治六もその以上のことは詳しく知らなかった。しかしこれだけの事実でも、主人の寝ぼけている顔を洗うには十分の冷たい水であると彼は考えていた。彼は今夜それを残らず打ち明けた。そうして、もともとが気晴らしの遊びであるから、女に情夫《おとこ》があろうが亭主があろうが、別にかけかまいはないようなものであるが、こっちもそのつもりで腹を締めて掛からないと、飛んだ馬鹿を見ることにもなる。吉原へ行くのもいいが、よくそのつもりでいて貰いたいと言った。
「おめえさまも昔とは違う身分だ。千両の金をなくしてしまえば、乞食するよりほかはあるめえ。主人と家来が二人つながって三河万歳《みかわまんざい》もできめえから、よっくそこらも考げえて下せえましよ」
次郎左衛門は衾《よぎ》から首を出して、唯《ただ》せせら笑っているばかりであった。
「馬鹿野郎、くよくよ心配するな。今だからこそ遊んでいられるのだ。これから商売を始めて、千両の金を元手にかけてしまったら、どの金で遊べる。遊ぶなら今のうちだ。八橋に情夫《おとこ》のあることはおれも知っている。現に、兵庫屋の二階で八橋からひきあわされたこともある。八橋は従弟《いとこ》だといったが、そうでないことは俺もちゃんと見ぬいていた。俺は近づきの印《しるし》だといって百両包みを出してやったら、その栄之丞という男は薄気味の悪そうな顔をしていて、容易に手を出そうともしなかった。無理に押し付けても、とうとう返して行った。いや、おとなしい可愛い男よ。あの男ならおれが訳をいって、この千両を半分やるから八橋と手を切ってくれと頼めば、いつでもきっと素直に承知してくれるに相違ない」
「千両を半分やる……」と、治六は呆れて笑い出した。「それよりもおめえさまの首をやった方がよさそうだ。わはははは」
「事によれば首をやらないとも限らない」と、次郎左衛門も笑った。「だが、金のあるうちは命が大事だ」
もう相手になるのが面倒になったらしい。次郎左衛門はくるりと寝返りを打ってこちらへ背を向けた。いつもの癖で、衾をすっぽりと頭からかぶってしまった。雁の声がまたきこえた。
ことばの行きがかりでそんなことを言ったのだろうとは思うものの、冗談にも千両の半分を八橋の情夫にやる――飛んでもないことだと治六は思った。どっちにしても、身上《しんしょう》を振ってもそれだけしかない金を、そう安っぽく扱うような料簡《
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