りょうけん》では行く末が思いやられる。夜が明けたならば宿の亭主とも相談して、あの千両を宿にあずけてしまうに限る。当人の手に握らせて置くのはあぶないと考えた。
 夜の明けるのを待ちかねて、治六は佐野屋の亭主に相談した。どうで千両の金を首へかけて歩いていられるものでない、外へ出る時には宿へあずけて行くに決まっている。そのときに受取ったが最後、なんとか文句を付けて迂闊《うかつ》に渡してくれるなと言った。客の金をあずかっておきながら、それを渡すときに文句を付けるというのは、宿屋として甚だ質《たち》のよくない遣り方で、亭主も少し躊躇したが、しょせんは自分の欲心ですることではない、預け主のために思うのであるという理屈から、亭主も治六の忠義に同情して、結局その相談に乗ることになった。しかし、いよいよその金をあずかるという段になると、次郎左衛門は半分だけしか亭主に渡さなかった。
「八橋に土産もやらなければならない。二階じゅうの者にも相当のことをしてやりたい。まして歳の暮れの物日《ものび》前だ。それ相当の用意がなくって廓へ足踏みができると思うか」
 彼は治六を叱り付けて、五百両を持って供をしろと言った。治六は渋々ながら付いて行くことになった。二人とも髪月代《かみさかやき》をして、衣服を着替えて出た。ここであくまでも逆らったところで仕方がない。ともかくも残りの半分にさえ手を着けなければまあいいと、治六も諦めを付けていた。
 二人が駕籠で廓《くるわ》へ飛ばせたのは昼の八つ(午後二時)を少し過ぎた頃であった。雷門《かみなりもん》の前まで来ると、次郎左衛門を乗せた駕籠屋の先棒が草鞋の緒を踏み切った。その草鞋を穿き替えている間に、次郎左衛門は垂簾《たれ》のあいだから師走の広小路の賑わいを眺めていたが、やがて何を見付けたか急に駕籠を出ると言った。
 駕籠を出ると、彼は小走りに駈けて行った。呼び止められたのは、編笠《あみがさ》をかぶった若い男であった。
「栄之丞さんじゃあございませんか」
 編笠の男は宝生栄之丞であった。
「おお、次郎左衛門どの。また御出府《ごしゅっぷ》でござりましたか」と、彼は笠をぬいで丁寧に会釈《えしゃく》した。
「江戸が懐かしいので又のぼりました」と、次郎左衛門は笑った。八橋に変ることはないかと取りあえず訊いた。
 臆病らしい態度で栄之丞は始終挨拶していた。自分も久しく無沙汰をしているが、八橋には多分変ったこともあるまいと言った。自分は浅草観音へ参詣した帰りで、これから堀田原《ほったわら》の知りびとのところを訪ねようと思っていると言った。一緒に吉原へ行かないかと次郎左衛門に誘われたが、彼は振り切るように断わって別れて行った。
 おとなしい男だと次郎左衛門はまた思った。従弟《いとこ》のなんのと言い拵《こしら》えてはいるものの、彼が八橋の情夫であることは能く判っていた。かりにこっちでは何とも思っていないとしても、普通の人情として彼がこっちに対して快《こころよ》く思っていないのは判り切っている。けれども決して忌《いや》な顔を見せない。むしろこっちを恐れるようなおどおどした態度で、いつも丁寧に挨拶している。単に身分の上から見ても、たとい浪々しても彼も宝生なにがしと名乗るお役者の一人である。こっちは唯の百姓である。その百姓に対して、彼は一目《いちもく》も二目も置いたような卑下《ひげ》した態度を取っている。どっちからいっても、よくよくおとなしい可愛い男だと次郎左衛門は思った。
 治六にいくら注意されても、彼はこのおとなしい若い浪人者に対して、いわゆる色がたきの恋争いのという強い反抗心をもち得なかった。彼は恋のかたきというよりも、むしろ一種の親しみやすい友達として栄之丞を取扱いたかった。
 しかしその親しみやすいといううちには、おのずからなる軽蔑の意味も含まれていた。次郎左衛門が彼に対して反抗心や競争心をもち得ないのは、相手を余りに見くびっていた結果でもあった。次郎左衛門は芝居や講談で伝えられているような醜《みにく》いあばた[#「あばた」に傍点]面《づら》の持ち主ではなかった。三十一の男盛りで身の丈《たけ》は五尺六、七寸もあろう。剣術と柔術とで多年鍛えあげた大きいからだの肉は引き締まって、あさ黒い顔に濃い眉を一文字に引いていた。彼は実に男らしい顔と男らしい体格とをもっていた。たしかに一人前の男として、大手を振って歩けるだけの資格をそなえていた。金も持っていた。力も持っていた。
 それに較べると、栄之丞は哀れなほどに貧弱なものであった。目鼻立ちこそ整っているが、背も低い、病身らしく痩せている。次郎左衛門と立ちならぶと、まるで大人と子供ほどの相違があった。次郎左衛門もこんな者を相手にして、まじめに闘う気にはなれなかった。情夫であっても何でも構わない。八橋
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