いて一心不乱に剣術を習った。その動機はこうであった。あるとき博奕場で他の者と論争を始めると、相手は腕をまくってこう言った。
「いくら佐野のお大尽《だいじん》さまでも、こうなりゃあ腕づくだ。腕で来い」
 幸いにささえる者があったので、その場は何事もなく納まったが、もし彼がいう通りに腕づくの勝負となったら、次郎左衛門はとても彼の敵でないことを自覚していた。次郎左衛門はその以来、人間がいざという場合にはおのれの力のほかに恃《たの》む物のないことを今更のように思い知って、まず剣術を習った。柔術を習った。取り分けて剣術に趣味をもって毎日精出して習ったために、後には立派な腕利きとなった。彼はその力を利用して方々を暴れ歩いた。少し気に食わないことがあると、誰にでも喧嘩を売った。子分でも妾でも容赦なしに踏んだり蹴《け》たりした。妾は一年と居付かないでみんな逃げてしまった。
 父が死んだのちの彼はもう唯の百姓ではなかった。彼はむしろ博奕打ちとして世間から認められていた。彼もそれを得意としていた。しかし彼は大親分と立てられるような徳望にかけていたので、相当の子分をもちながら彼の縄張り内は余りに拡げられなかった。子分にも片腕になって働くような者が一人もできなかった。彼はいつまでも孤立の頼りない地位に立っていた。彼は吝《けち》でないので、ずいぶん思い切って金を遣った。しかもその縄張りは余り広くないので、収支がとても償《つぐな》わない。彼の身代はますます削《けず》られてゆくばかりであった。その上に彼は吉原狂いを始めた。
 去年の春、彼は治六とほかに二、三人の子分を連れて江戸見物に出た。この佐野屋に宿を取って、彼はその頃の旅人がみんなするように、花の吉原の夜桜を観に行った。江戸めずらしいこのひと群れは誰也行燈《たそやあんどう》の灯《ほ》かげをさまよって、浮かれ烏の塒《ねぐら》をたずねた末に、仲《なか》の町《ちょう》の立花屋という引手茶屋《ひきてぢゃや》から送られて、江戸町《えどちょう》二丁目の大兵庫屋《おおひょうごや》にあがった。次郎左衛門の相方《あいかた》は八橋《やつはし》という若い美しい遊女であった。八橋は彼を好ましい客とも思わなかったが、別に疎略にも扱わなかった。彼はひととおりに遊んで無事に帰った。
 江戸のよし原のいわゆる花魁《おいらん》なるものが、野州在の女ばかりを見馴れていた彼の眼に、いかに美しく神々《こうごう》しく映ったかは言うまでもなかった。彼はまた次の夜すぐに二回《うら》を返した。その次の夜には三回目《なじみ》を付けた。三回目の朝には八橋が大門口《おおもんぐち》まで送って来た。三月ももう末で、仲の町の散る花は女の駒下駄の下に雪を敷いていた。次郎左衛門もその雪を踏んで、一緒に歩いた。
 彼はほかの子分どもをひとまず国へ帰してしまった。治六だけを宿に残して、それからほとんど一夜も欠かさずに廓《くるわ》へかよった。彼は見返り柳の雨にほととぎすを聞いたこともあった。待合いの辻の宵にほたるを買ったこともあった。彼は三月の末から七月の初めへかけて百日ほども八橋に逢い通した。金がつづかないので、国から幾度も取り寄せた。
「旦那さま、盆がまいりますぞ。いい加減に戻らっしゃい」と、治六も呆れてたびたび催促したので、次郎左衛門もさすがに気が付いたらしく、盂蘭盆《うらぼん》まえに一旦帰ることになった。
 帰って見ると、百日あまりの留守の間に子分どもの多くは散ってしまった。自分の縄張り内は大抵他人に踏み荒らされていた。いつもの次郎左衛門ならばとても堪忍する筈はなかった。彼は虎のように哮《たけ》って、自分の縄張りを荒らした相手に食ってかかるに相違なかった。彼は得意の剣術を役に立てて、相手と命の遣り取りをしたかも知れなかった。しかし彼の性質はこの春以来まったく変っていた。
 彼が性格のいちじるしく変化したことは、佐野屋で一緒に起き臥《ふ》ししていた治六にもよく判っていた。虎はいつか猫に変って、彼のおそろしい爪も牙《きば》も見えなくなってしまった。彼は誰にも叱言《こごと》一ついわないようになった。彼は薄気味の悪いほどにおとなしくなった。その理由は治六にも判らなかったが、ともかくも吉原がよいを始めてから、主人の性質がこう変ったということだけは容易に想像された。
「まあ、まあ、打っちゃって置け」と、次郎左衛門は子分どもを却ってなだめていた。
 自分の縄張りを踏み荒らされても、指をくわえて黙っている次郎左衛門のなまぬるい態度が子分どもの気に入らなかった。かれらは歯がゆく思った。親分を意気地なしと卑しんだ。折角踏みとどまっていた少数の子分もみんな失望して散った。さらでも孤立の次郎左衛門は、いよいよほんとうの一本立ちになってしまった。彼の影はいよいよ寂しくなった。
「いっそ、
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