》頃に初めて馬喰町の宿へ帰ると、治六は帳場の前に坐って亭主と話していた。
「旦那さま。おめでとうござります」
 治六はもとの主人の前にうやうやしく手をついた。
「お帰んなさいまし」と、亭主も会釈した。
 それらを耳にも掛けないように、次郎左衛門は二階へすたすた[#「すたすた」に傍点]昇って行った。
 さすがに遊び疲れたような心持ちで次郎左衛門はぼんやりと角火鉢の前に坐ると、亭主は自分で土瓶《どびん》と茶碗とを運んで来た。
「松の内もいいあんばいにお天気がつづきました」
 彼は手ずから茶をついで出した。それは治六が帰参の訴訟に来たものと次郎左衛門も直ぐにさとった。彼はわざと苦《にが》い顔をして黙っていると、果たして亭主はそれを言い出した。
「治六さんもしきりに頼んでおります。わたくしも共どもにお詫びをいたしますから、どうか幾重にも御料簡を……」
 次郎左衛門は顔をそむけて聴かないふうをしていた。離れていると何だか寂しいようにも思いながら、顔を見ると彼はやっぱり治六が憎くてならなかった。

     十

 暮れから催していた雪ぞらも、春になってすっかり持ち直したが、それも七草《ななくさ》を過ぎる頃からまた陰《くも》った日がつづいて、藪入り前の十四日にはとうとう細かい雪の花をちらちら見せた。
「今夜も積もるかな」
 栄之丞は夕方の空を仰いで、独りごとを言いながらよそ行きの支度をした。今夜は謡いの出稽古《でげいこ》の日にあたるので、これから例の堀田原へ出向かなければならなかった。本来は一六《いちろく》の稽古日であるが、この十一日は具足開《ぐそくびら》きのために、三日後の今夜に繰り延べられたのであった。
 春とはいっても底冷えのする日で、おまけに雪さえ落ちて来たので、遠くもない堀田原まで行くのさえ気が進まなかったが、約束の稽古日をはずす訳にもゆかないので、栄之丞はいつもよりも早目に夕飯をしまって、一張羅《いっちょうら》の黒紬《くろつむぎ》の羽織を引っ掛けた。田圃は寒かろうと古い頭巾《ずきん》をかぶった。妹がいなくなってから、独り者の気楽さと不自由さとを一つに味わった彼は、火鉢の火をうずめて、窓を閉めて、雨戸を引き寄せて、雨傘を片手に門《かど》を出ようとすると、出合いがしらに呼びかけられた。
「兄《にい》さま」
 傘も持たないで門に立ったのは妹のお光であった。雪はますます強くなって来たらしく、彼女の総身は雪女のように真っ白に塗られていた。
「妹か。今頃どうして来た」
 門に立ってもいられないので、栄之丞はともかくも再び内へ引っ返すと、お光もからだの雪を払ってはいって来た。家の中はもう暗かった。
「兄さま」と、お光は重ねて兄を呼んだ。その声の怪しく顫《ふる》えているのが栄之丞の耳についた。
「なんだ」
 少し不安にもなって来たので、彼は行燈をまんなかに持ち出して灯をとぼした。その灯に照らされた妹の顔は真っ蒼であった。髪もむごたらしく乱れていた。着物の襟も乱れて、袖の八つ口もすこし裂けていた。何か他人《ひと》とむしり合いでもしたのではないかとも思われたので、兄はあわただしく訊いた。
「え、どうした。誰かと喧嘩でもしたのか」
 お光はまだ動悸が鎮まらないらしく、幅の狭い肩をいよいよせばめて、胸を抱えるように畳に俯伏していたが、やがてわっ[#「わっ」に傍点]と泣き出した。
「おい、どうしたんだ。泣いていてはわからない。主人に叱られたのか、朋輩と喧嘩でもしたのか」
 お光は崩れかかった島田をぐらつかせながら頭《かぶり》を振った。彼女はまだすすり泣きの声をやめなかった。
「わたしは稽古に出る先きだ。早く訳を言ってくれ」と、栄之丞も少し焦《じ》れ出した。
「申します。堪忍して下さい」
 彼女が泣きながら訴えるのを聞くと、お光の奉公している三河屋のお内儀《かみ》さんは、よんどころない義理で二十両取りの無尽《むじん》にはいっていた。きょうは代籤《だいくじ》でそれが当ったというので、お光は深川までその金を受取りの使いにやらされた。昼間だから大丈夫だろうが、それでも気をおつけよとお内儀さんは注意した。お光は橋場の寮を出て深川へ行った。
 世話人がいるとか居ないとかいうので、お光はしばらくそこに待たされた。二十両の金をうけ取って深川を出たのはもう七つ(午後四時)さがりで、陰った日は早く暮れかかった。おまけに雪さえちらちら[#「ちらちら」に傍点]と落ちて来たので、お光は小きざみに足を早めて橋場へ帰って来る途中、吾妻橋《あずまばし》の上を渡りかかると、さっきから後を付けて来たらしい一人の男が、ふいに駈けて来てうしろからお光を突き飛ばした。彼女はひと堪まりもなくそこに突んのめると、男はすぐにその手から小さい風呂敷包みを引ったくろうとした。風呂敷には財布に入れた二十両
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