あった。
「治六がゆうべどんなことを言ったのだ」と、彼はまた捜りを入れた。
あるいは無考えの治六めが今の境界をべらべらしゃべっているのではないかという不安もあった。八橋の口ぶりによると、治六もさすがにそんなことは口外しなかったらしく思われたので、次郎左衛門もまず安心したが、それにしても乗りかかった舟の楫《かじ》を右へも左へも向けることは出来なかった。彼はどこまでも嘘で押し通すよりほかはないので、苦しいながらも前の誓い――偽りの誓いをまた繰り返した。
「さっきもいう通り、来年の三月には国へ帰って身請けの金を持って来る」
「ほんとうざますか」
「嘘はつかない」
次郎左衛門は息が詰まるほどに苦しくなった。今までは八橋が自分をだましていたのであるが、今は自分が八橋をだましているのである。だまされている身よりも、だましている身の方がどのくらい切《せつ》ないか判らないと、彼はつくづく情けなくなった。彼は夜の明けないうちに逃げ出したくなって来た。
八橋の方では容易に帰そうとはしなかった。彼女は全く栄之丞を見捨てた証拠だといって、掛守《かけまもり》の中から男の起請《きしょう》を出して見せた。
「この通り、よく見ておくんなんし」
彼女はその起請をずたずた[#「ずたずた」に傍点]に引き裂いて、行燈の火にあてると、紅い小さい焔がへらへら[#「へらへら」に傍点]と燃えあがった。彼女は更にその火を枕もとの手あぶりに投げ込むと、焔《ほのお》はぱっと大きく燃えて、見る見るうちに薄白い灰となった。
恋の果てはこうしたものかと思うと、次郎左衛門はなんだか果敢ないような心持ちにもなった。それと同時に子供が蟻《あり》やみみずを踏み殺した時のような、一種の残忍な愉快と誇りを感じた。弱い栄之丞はおれの足の下に踏みにじられてしまったのだと思った。
その灰の中から栄之丞の蒼白い顔が浮き出したかのように、八橋は眼を据えて煙りのゆくえをじっと見つめていた。彼女の顔も物凄いほどに蒼白かった。やがて彼女は次郎左衛門の方をしずかに見かえった。二人は黙ってほほえんだ。
あくる朝、次郎左衛門が帰る時にも、八橋は茶屋まで送って来て、身請けのことをくれぐれも頼んだ。
「ほんとうざますか」と、彼女はここでも念を押した。
「嘘はつかない」と、次郎左衛門も同じ誓いをくりかえして別れた。
仲の町には冬の霜が一面に白かった。次郎左衛門を乗せた駕籠が大門《おおもん》を出ると、枝ばかりの見返り柳が師走の朝風に痩せた影をふるわせていた。垂れをおろしている駕籠の中も寒かった。茶屋で一杯飲んだ朝酒ももう醒めて、次郎左衛門は幾たびか身ぶるいした。
初めから相手に足らないやつとは思っていたが、それでも栄之丞を見事に蹴倒してしまったということは、次郎左衛門に言い知れぬ満足を与えた。ゆうべの闇撃《やみう》ち以来、にわかに栄之丞を憎むようになった彼に取っては、殊にそれがこころよく感じられた。八橋が栄之丞を見限ったということが嬉しかった。
「八橋はもうおれの物ときまった」
それに付けても、彼は八橋を欺《あざむ》いているのが気にかかった。いっそこれから廓へ引っ返して、自分が今の境遇をあからさまに打明けようかとも思ったが、彼はやはり臆病であった。いよいよどん底へ落ちるまでは、あくまでも嘘をつき通していたかった。その三月が来たらどうする。その三月が来るまでに、ふところの金がもう尽きてしまったらどうする。次郎左衛門は努めてそんなことを考えまいとしていた。
栄之丞を弱いやつだと笑ったおれも、やっぱり弱い奴であった。栄之丞を卑怯な奴だと罵ったおれも、やっぱり卑怯者であった。そう思いながらも、彼は自分を自分でどうすることも出来なかった。歯がゆいような、情けないような、辛いような、こぐらかった思いに責められて、彼は一人でいらいら[#「いらいら」に傍点]していた。
次郎左衛門はその後も八橋のところに入りびたっていた。暮れから春の七草までに彼は四百両あまりの金を振り撒いてしまった。どこまでも佐野のお大尽で押し通そうという見得《みえ》が手伝って、彼はむやみに金をつかった。自分の内幕を八橋に覚られまいという懸念から、彼はいつもよりも金づかいをあらくして見せた。ほかの客はみんな蹴散らされた。
栄之丞は踏みつぶしてしまった。ほかの客は蹴散らしてしまった。次郎左衛門は今が得意の絶頂であった。彼は天下を取った将軍のようにも感じた。しかもその肚《はら》の底には抑え切れない寂しさがひしひしと迫って来た。
芸妓や幇間《たいこ》が囃《はや》し立てて、兵庫屋の二階じゅうが崩れるような騒ぎのあいだにも、彼はときどきに涙ぐまれるほど寂しいことがあった。治六のことが思い出されたりした。元日から七草まで流連《いつづけ》をして、八日の午《ひる
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