《やみう》ちにする――どうもそれらしく思われてならなかった。
 もともと今夜の相談は自分の方が少し無理である。無理は自分も万々承知している。しかし無理ならば無理で、なぜ面とむかって不承知を言わない。おとなしそうな顔をして万事呑み込んでおきながら、暗い所でおれを亡《な》い者にしようとする。どう考えても面白くない奴だ。弱い奴だ、卑怯な奴だ、憎い奴だと、次郎左衛門は腹立たしくなった。
「よし、これからもう一度引っ返して行って、あいつの素《そ》っ首を叩き落してやろう」
 彼はむらむら[#「むらむら」に傍点]として、ふた足三足行きかけたが又かんがえた。あんな意気地のない奴でも人ひとりを殺せば、こっちも罪をきなければならない。罪人になったら八橋にも、もう逢えまい。こう思うと彼の張り詰めた気もまたくじけた。忌々《いまいま》しいが我慢する方が無事であろう、打っちゃって置いたところで、あんな意気地なしがこの後なにをなし得るものでもないと、彼は多寡をくくって胸をさすった。
 真っ暗な枯れ田の上を雁が啼《な》いて通った。ここらへ来ると、夜風が真っ北から吹きおろして来て、次郎左衛門は顫《ふる》えあがるほど寒くなった。つい目の前の廓では二挺鼓《にちょうつづみ》の音が賑やかにきこえた。次郎左衛門はもう何も考えずに、まっすぐに吉原の方へむいて行った。
 いつもの通りに立花屋から送られて、彼は兵庫屋の客となった。その晩、座敷が引けてから次郎左衛門は八橋になにげなく訊いた。
「栄之丞さんはこの頃ちっとも見えないのか」
「ちっともたよりはありんせん」と、八橋は冷やかに答えた。
「なぜだろう」
「なぜか知りんせんが、あんな不実な人はどうなっても構いいせん」と、八橋はさらに罵《ののし》るように言った。
 親身の従弟《いとこ》と思えばこそ、自分もこれまでに随分面倒も見てやった。それにこの頃は何のたよりもしない、顔も見せない。あんな不人情な人はどうなっても構わない、一生逢わないでも構わないと、八橋はさもさも見限ったように言った。嘘とほんとうが半分ずつまじっているこの話を、次郎左衛門は一種の興味をもって聴いていた。
 それからだんだん捜《さぐ》りを入れて見ると、八橋はまったく栄之丞に愛想をつかしているらしく思われた。あんな不実な奴はどうなっても構わないと、本当に思っているらしかった。
 そこへ新造の浮橋が来て、今夜はどうして治六を連れて来ないかと訊いた。あいつは勘当したと次郎左衛門は正直に答えると、二人の女は黙って顔を見合せていた。治六の噂がいとぐちになって、又ぞろゆうべの身請けの話が出た。
「三月になると国へ一度帰る。そうして、金を持って来るから待ってくれ」
 次郎左衛門もよんどころなしに一時のがれの嘘を言った。浮橋が出て行ったあとで、八橋は急に泣き出した。
「堪忍しておくんなんし」
 今までお前を欺していたが、栄之丞は自分の従弟《いとこ》ではない、実は自分の情夫《おとこ》であるということを、八橋は泣いて白状した。いくらこっちでばかり親切を運んでも、むこうではなんとも思ってくれないで、この頃はなるたけ逃げようとしている。現に達者で雷門を歩いていながら、病気だといって廓へは寄り付かない。そんな不人情な男はわたしもすっぱりと思い切った。あきらめてしまった。さてそうなると、こうして廓にいてもなんの望みもない、楽しみもない、一日も早く苦界《くがい》をぬけたい。今のわたしが杖柱《つえはしら》と取りすがるのは、お前ばかりである。一つには不実な男の顔を見返すためと、二つには廓の苦を逃がれるために、どうぞわたしを請け出してくれと、彼女は繰り返して頼んだ。
「今まで欺していたのが憎いと思いんすなら、請け出して三日でも女房にした上で、突くとも斬るとも勝手にしておくんなんし」
 彼女は次郎左衛門の前にからだを投げ出した。栄之丞のことはとうの昔から承知しているので、今この白状を聴いても次郎左衛門は別に驚きもしなかった。むしろ八橋の口からこの正直な白状を聴いたのをこころよく思った。よく白状してくれたと嬉しく思った。しかも悲しいことには、今の自分にはその願いを肯《き》き入れるだけの力がない。千両に足りない金で八橋のからだをどうすることも出来ないのは判り切っていた。
「八橋も白状した。おれも男らしく白状しようか」
 相手が正直に何もかも白状した上は、自分も今の身の上を正直に白状すべきである。折角の頼みではあるが、今の次郎左衛門としてはお前をどうすることも出来ないと、彼は正直に打明けなければならないと思った。しかし彼は自分でも歯がゆいほどに男らしくなかった。女の前で宿なし同様の今の身分を明かすのは如何にも辛かった。彼の胸の底には、やはり佐野のお大尽で押し通していたいという果敢《はか》ない虚栄《みえ》が
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