が包んであるので、お光はやるまいと一生懸命に争った。あまりに事が急なので、彼女は救いを呼ぶ間もなかった。
しばらく挑《いど》み合ったが、かよわいお光は大の男にとても勝つ事はできなかった。男はその風呂敷包みをもぎ取って、取り縋《すが》る彼女を蹴放して本所の方へ逃げてしまった。あいにくの雪で往来も途切れているので、お光が泥坊、泥坊と呼ぶ頃まで誰も救いに来る者はなかった。彼女の泣き声を聞き付けて二、三人の人が駈けつけて来た時には、曲者はとうに姿を隠していた。
「どうしたらよかろう」
お光は橋の上に泣き伏していた。人びとに慰められて彼女はようよう起ち上がったが、これからどうしていいか判らなかった。二十両といえば大金である。それを奪《と》られましたと言って唯おめおめ[#「おめおめ」に傍点]とは帰られない。彼女は途方に暮れて、橋の欄干に倚《よ》りかかって泣いていた。
「それも災難で仕方がない。早く家《うち》へ帰って御主人に謝まるがいい。決して短気や無分別を起してはいけない」
もしや川へでも飛び込むかと危ぶんだらしい一人の老人が親切に意見してくれたので、お光は泣きながら欄干を離れた。そうして浅草の方へとぼとぼと歩き出したが、馬道《うまみち》の角まで来てまた立ち停まった。どう考えてもこのまま主人の家へは帰りにくかった。ともかくも兄に相談して、その上で又なんとか仕様もあろうかと、彼女は果敢《はか》ないことを頼みにして、雪のますます降りしきる中を傘もささずに大音寺前へ訪ねて来たのであった。
「困ったことになった」
栄之丞もその話を聴いて吐胸《とむね》をついた。まだ新参の身、殊に年のゆかない妹がこんな粗相《そそう》をしでかしては、主人におめおめ[#「おめおめ」に傍点]と顔を向けられまい。時の災難とはいいながら飛んだことになったと、彼も同じく途方に暮れてしまった。しかし今さら妹を叱ったとて始まらない。これから主人のところへ妹を連れて行って、よくその事情を話して謝まるよりほかはあるまいと思った。幸いにお内儀さんはいい人でもあり、新参ながらお光に眼をかけてくれるとも聞いているから、こっちが正直に訳を言ってひたすら詫び入ったらば、さのみむずかしいことも言うまいかとも想像された。
「どうも仕方がない。これから橋場《はしば》へ一緒に行って、わたしから主人によく詫びてやろう」と、彼は泣いている妹を励ますように言った。
「そうして、そのお金はどうするのです」と、お光は不安らしく訊いた。
「どうするといって、主人に我慢してもらうよりほかはない。勿論、こっちが償《つぐの》うことが出来ればいうまでもないが、いまの身分で二十両はおろか、十両の工面《くめん》も付こう筈がない、つまりはこっちも災難、主人も災難とあきらめて貰うよりほかはない。さあ、遅くなっては悪い。ともかくも一緒に行こう」
「はい」と、お光はまだ躊躇していた。
年の若い正直な彼女は、主人に二十両の損をかけるというのが如何《いか》にも済まないことのように思われてならなかった。とても出来ない相談とは知りながら、彼女はどうにかその金の工面は付くまいかと言った。
「いっそ八橋さんに相談して見たら」と、彼女はしまいにこんな事までほのめかした。
栄之丞は厭な顔をして取り合わなかった。努めて八橋に遠ざかろうとしている矢先きに、こんな相談を彼女のところへ持って行きたくなかった。ここでいつまでも評議をしていても果てしがない。ともかくも主人に逢った上でまた分別の仕様もあろう。案じるよりも産むが易いの譬《たと》えで、思いのほかに主人がこころよく免《ゆる》してくれるかも知れないと言った。
足の進まないお光を叱るように追い立てて、栄之丞は妹と相合傘《あいあいがさ》で雪の門を出た。兄の袖にしょんぼりと寄り添って、肩をすくめて泣きながら歩いて行くお光のすがたが、兄の眼にはいじらしく見えてならなかった。雪を吹き付ける田圃の風を突っ切って、二人は真っ白になって橋場の寮にたどり着いた。
主人の方でもお光の遅いのを心配しているところであった。お内儀さんは穏やかな人で、殊に新参ながらお光を可愛がっているので、その話を聴いて一旦は驚いたが、別にお光を咎《とが》めようともしなかった。
「それでも怪我がなくってよかった。なに、あの金が今要るという訳でもないんだから心配するには及びません。阿兄《おあにい》さんもわざわざ御苦労さまでございました」
この返事を聴いた栄之丞もほっ[#「ほっ」に傍点]とした。お光は嬉し泣きにまた泣いた。
「御主人のお慈悲を仇《あだ》やおろそかに思ってはならないぞ。この上の御恩返しにはせいぜい気をつけて御奉公をしろよ」
主人の前で妹にくれぐれもこう言い聞かせて、栄之丞は早々に帰った。こんなことで堀田原へ廻るのが非常
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