。それは堀田原のある御家人《ごけにん》の家で、主人のほかに四、五人の友達が集まって、一六《いちろく》の日に栄之丞の出稽古を頼むということになった。それで乏しいながらも、どうにかこうにか食って行くだけの凌ぎは付けられるようになった。お光の奉公口もここの主人が親切に探してくれたのであった。
「兄《にい》さま。なぜこの頃は八橋さんの所へお越しにならないのでございます」
文《ふみ》が来ても、使いが来ても、なるべく避けているらしい兄《あに》のこの頃の様子をお光は不思議に思っていたが、栄之丞は妹にその訳を明かさなかった。八橋の方からは時どきに金を送ってくれた。品物も届けてくれた。それを断わるのも辛《つら》し、受け取るのも辛いので、栄之丞はそのたびごとに言うに言われない忌《いや》な思いをさせられた。
その次郎左衛門にきょう測《はか》らずも途中で出逢った。むこうではなんにも知らないような風で馴れなれしく話しかけたが、こっちは気が咎めてならなかった。栄之丞は早々にはずして逃げて来た。こっちの気のせいか、きょうは取り分けて次郎左衛門の眼つきがおそろしく見えた。こういう人を欺しては末がおそろしいと、彼はつくづく考えた。
次郎左衛門はあれから直ぐに吉原へ行ったに相違ない。今頃は八橋が彼にむかってどんなことを言っているだろう。自分の噂も出たかも知れない。それを思うと、栄之丞はますます忌な心持ちになった。妹が一心に縫っているのは、八橋から送ってくれた品である。それを見ながら栄之丞は次郎左衛門と八橋との行く末を考えたりしていた。八橋が自分のために癪をおこして半病人になっていようなどとは、彼は思いも付かなかった。
「これで妹のからだも落ちつく。おれも細ぼそながら、食《く》い続《つづ》きはできそうになって来た。不人情のようでもあるが、ここでいっそ思い切って八橋と離ればなれになってしまおうか。なんといっても向うは籠の鳥だ。こっちさえ寄り付かなければいい」
次郎左衛門を欺すと欺さないとは八橋の勝手であるが、自分だけはその係り合いを抜けたいと彼は思った。しかし、八橋に対してそれも余り薄情のようにも思われた。
ふんべつに迷った彼は、気をまぎらすために又もや小声で謡い始めると、お光はふと振り向いて訊いた。
「兄さま。わたくしが橋場へまいることを、八橋さんへ一筆《ひとふで》知らせてやりましょうか」
お光は八橋と文通をしていた。兄の使いで吉原へ行ったこともあった。
「いや、それにも及ぶまい。わたしからそのうちに知らせてやる。廓の者は無考えだから、お前の奉公さきへ返事などをよこされると迷惑だ。まあ止した方がよかろう」
「そうでございますねえ」
お光はおとなしく黙ってしまった。
六
次郎左衛門はその明くる日も、またその明くる日も流連《いつづけ》をして帰った。馬喰町の佐野屋の閾《しきい》をまたいだのは、師走の二十四日の四つ頃(午前十時)で、彼は近所の銭湯へ行って、帰るとすぐに夕方まで高いびきで寝てしまった。
「治六さん。相変らず長逗留だったね」と、佐野屋の亭主が顔をしかめてささやいた。
「どうも仕方がねえ」と、治六もあきらめたように溜め息をついていた。しかしただ諦めてはいられないので、彼は亭主になんとかいい工夫はあるまいかと更に相談した。
「いっそ、その花魁を請け出したらどうだろう」
亭主はしまいにそんなことを言い出した。こういう風にだらしなく金をつかっていたら、千両が二千両でも堪まったものではない。いっそ千両の金をたんと減らさないうちに八橋を請け出してしまって、残った金でどんな小商いでもはじめる。その方が却って無事かも知れないと彼は言った。
治六も考えた。さきおとといからの流連でも、自分が恐れていたほどに金は懸からなかった。ここの亭主に預けてある五百両のほかに、まだ百六七十両は確かに残っている。もし四、五百両ぐらいで、そっと八橋の身請《みう》けができるものならば、いっそそうした方が無事かも知れないと考えた。
「花魁の身請けは幾らぐらいかかるだろうね」と、彼は試みに亭主に訊いた。
亭主も首をひねった。幾らの金があればこの問題が解決するのか、彼にも確かな見当は付かなかった。百両で身請けのできるのもあれば、千両かかるのもある。しかし、吉原で大兵庫屋の花魁を請け出すという以上は、何かの雑用《ぞうよう》を見積もって、まず千両仕事であるらしく思われた。その話を聴いて、治六も同じく首をかしげた。
「千両かかっちゃあ大変だ。どうにもならねえ」
もともと千両しかない金のうちが、もう三分の一ほどは食い込んでいる。千両の身請けはとてもできない。たとい残りの三分の二で、どうやらこうやら埒が明いたところで、主人と花魁と自分との三人が一文なしではどうにもならない。して
前へ
次へ
全35ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング