見ると、八橋の身請けなど初めからできない相談であった。
「だが、一概にはいえない。花魁の借金が案外すくないようならば、親許《おやもと》身請けとでもいうことにして、なるべく眼立たないようにすれば、千両の半分でも話が付かないとも限らないが……。いったい花魁の借金はどの位あるんだろう」と、亭主はまた言った。
 それは治六も知らなかった。しかし旦那は大抵知っているに相違ない。一応はそれとなく次郎左衛門に訊いて見て、とても出来そうもないことならば、その儘に聞き流してしまうもよし、又どうにか手出しのできそうな話であったら、改めて自分の考えも言い、旦那の料簡も訊いて見ようと、彼は亭主と相談して別れた。
 日が暮れて、夜食の膳が運び出される頃になって、次郎左衛門はようよう眼を醒ました。彼は治六に、もうなんどきだと訊いた。すぐに駕籠を呼べとでも言いそうな気色《けしき》なので、治六は先《せん》を越して八橋の身代《みのしろ》を訊くと、次郎左衛門は知らないと言った。いずれにしても今の身の上では八橋を請け出すことはむずかしかろうと言った。請け出したところで連れて来る所もないと言った。
「いっそ早くに請け出した方がよかったかも知れない」
 次郎左衛門は今さら悔《くや》むように言った。この春よし原でつかった金だけでも、八橋の身請けは立派にできたのである。しかし自分は八橋の意見に従って、もとの堅気の百姓になろうと思っていた。堅気の百姓の家へ吉原の遊女を引き入れる訳にはゆかない。第一に親類の苦情が面倒である。それらの事情に妨げられて、今まで身請けを延引《えんいん》していたのであったが、こうなると知ったらば半年まえに思い切って身請けをしてしまった方が優《ま》しであった。それを悔んでももう遅い。自分はこの金のある限り、八橋に逢いつづけて、いよいよ金のなくなったあかつきに、なんとか料簡を決めるよりほかはないと言った。
 その暁にどういう料簡を付けるのか、治六はそれを心もとなく思った。勿論、根掘り葉掘り詮議したところで、どうで要領を得るような返事を受取ることのできないのは万々《ばんばん》承知しているので、彼もそのままに口をつぐんでしまった。あかりがついて、夜の町に師走の人の往き来が繁くなると、次郎左衛門は果たして駕籠を呼べと言い出した。しょせん止めても止まらないと思ったので、治六も一緒に供をして行った。
 その晩、治六は自分の相方の浮橋にむかって、それとなく八橋の身代のことを探って見ると、浮橋は急にまじめになった。
「なぜそんなことを聞きなんす。身請けの下ばなしでもありいすのかえ」
「なに、別にそういう訳じゃあねえ」と、治六はいい加減に胡麻化してしまったつもりでいた。
 しかし相手の方では胡麻化されていなかった。くるわに馴れている彼女は、これを治六の一料簡ではないと見た。主人の次郎左衛門と内々相談の上で、それとなくさぐりを入れるに相違ないと鑑定した。彼女は直ぐにそれを花魁に耳打ちすると、八橋はしばらく考えていた。
「あとでその御家来さんに逢わせておくんなんし」
 引け過ぎになって、次郎左衛門を寝かしつけてから、八橋は治六の名代部屋《みょうだいべや》へそっと忍んで来た。浮橋をそばにおいて、彼女は身請けの話を言い出した。彼女も浮橋の考えた通りに、それはお前の一存ではあるまい、主人に言い付けられてよそながら捜るのであろうと言った。治六は決してそんな訳ではない、ただ一時の気まぐれに訊いて見ただけのことだとまじめに言い訳をしたが、二人の女はなかなか承知しなかった。なんでも正直に白状しろと責めた。
「口は禍いの門《かど》で、飛んでもねえことになったが、まったくなんでもねえことでがすよ」と、治六も困り切っておろおろ声になった。
「嘘をつきなんし」
「隠すと、抓《つね》りんすによ」
 八橋は睨んだ。浮橋は小突《こづ》いた。そうして、お前が言わなければ言わないでもいい、わたしが直かに主人に訊いてみると八橋は言った。そんなことを主人の耳に入れられては困ると、治六はあわててさえぎった。困るならば素直に言えと、二人は嵩《かさ》にかかって責めた。
 防ぎ切れなくなって、治六もとうとう白状した。主人がいつまでも廓がよいをして、こういう風に無駄な金をつかっていては際限がない。廉《やす》い金でできることならば、いっそここで花魁を請け出してしまった方がいいと思ったので、ほんの自分の一料簡で訊いて見たまでのことである。主人はまったく知らないことであると、何もかも打ち明けて話した。それを聴いて、八橋は又かんがえていた。そうして、幾らぐらいまでの金を出してくれることが出来るのだと訊いた。
「まず、三、四百両、その上はむずかしい」と、治六は正直に答えた。
 二人の女は顔を見合せた。とても問題にならないとでもい
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