ぞ御不自由でございましょう」と、お光も寂しそうに言った。
「いや、こっちはわたしひとりでもどうにかなる。結構な主人といったところで、どうで奉公、楽なわけにも行くまい。まあ辛抱しろ」
「それで、いつから参るのでございます」
「さあ、いつと決めて来たわけでもないが、むこうも歳暮《くれ》から正月にかけて人出入りも多かろうし、なるべく一日も早いがいいだろう。お前の支度さえよければ、あしたにでも目見得《めみえ》に連れて行こう」
 お光はもう一日待ってくれと言った。目見得に行くといっても碌な着物も持っていない。いま縫いかけている春着はあしたでなければ仕立てあがらないから、どうかあさってに延ばしてもらいたいと言った。栄之丞も承知した。約束さえ決めて置けば一日ぐらいはどうでも構わないと言った。それにしても気が急《せ》くので、お光は夜業《よなべ》で裁縫に取りかかった。
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――心弱しや白真弓《しらまゆみ》、ゆん手にあるは我が子ぞと、思い切りつつ親心の、闇打ちにうつつなき、わが子を夢となしにけり――
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 栄之丞は柱に倚《よ》りかかって、小声で仲光《なかみつ》を謡っていた。寒そうな風が吹いて通った。堤へ急ぐらしい駕籠屋の掛け声がきこえた。うす暗い行燈の片明かりをたよりとして、お光はしきりに針を急がせていた。
 今の栄之丞には妹に春着を買ってやるような余裕はなかった。お光がいま縫っているのは、先月の末に八橋から送ってよこしたものであった。八橋はお光も識っていた。栄之丞の妹といえば自分の妹も同様であるというので、彼女は今までにもお光にいろいろの物を送ってくれた。くるわの年季があければ八橋は自分の姉になるものとお光も思っていた。粗末ではあるが春着にでもと送ってくれた一反《いったん》の山繭《やままゆ》が、丁度お目見得の晴着となったのであった。いくら奉公でも若い女が着のみ着のままでは目見得にも行かれない。これもみんな八橋のお庇《かげ》であると、お光は今更のように有難がっていた。
 それが今の栄之丞には心苦しく思われてならなかった。彼は八橋と縁を切りたいと思っていた。この夏の初めに八橋から使いが来て、少し用があるから是れから直ぐに来てくれとのことであった。
 昼の九つ(十二時)過ぎで、栄之丞は夏の日を編笠によけながら出て行くと、八橋の座敷には次郎左衛門が流連《いつづけ》をしていた。彼女は栄之丞にささやいて、次郎左衛門には自分の従弟《いとこ》であるように話してあるから、お前はそのつもりで逢ってくれ。きっと幾らかの金をくれるに相違ないと言った。栄之丞は面白くなかった。いやだと振り切って帰ろうとするのを、八橋はしきりに止めた。彼は渋々ながら次郎左衛門に引き合わされて、八橋が注文通りの嘘をついてしまった。相手は別に疑うような顔を見せないで、近づきのしるしにといって百両の金を惜し気もなしにくれたが、栄之丞は恐ろしくて手が出せなかった。いくら自堕落に身を持ち崩しても、彼は決して腹からの悪人ではなかった。八橋が思うように、ひとを欺《だま》して平気ではいられなかった。ましてこれが三両や五両ではない、この時代において大枚《たいまい》百両の金をひとから欺して取ろうなどとは、彼として思いもつかないことであった。栄之丞はたって辞退してその金を受取らなかった。
 彼がその金を断わったのは、ひとを欺すことのできない彼の正直な心から出たのでもあったが、もう一つ彼を恐れさせたのは、次郎左衛門その人の容貌と態度とであった。案外に正直らしい、鷹揚《おうよう》な、しかもその底には怖ろしい野性がひそんでいるらしい彼の前に曳き出された時に、栄之丞は言い知れぬ怖れを感じた。ひとを欺《だま》すことのできない彼は、いよいよこの人を欺すことを怖ろしく感じたのであった。
「ぬしも気が弱い。なぜあの金を断わってしまいなんしたえ」
 八橋はあとで失望したように言った。
「いや、あの人を欺すのは悪い。ああいう人を欺すと殺されるぞ」と、栄之丞はおびえたように言った。八橋はただ笑っていた。
 その以来、栄之丞は八橋に近づくことがなんだか忌《いや》になって来た。いかにひとを欺すのが商売でも八橋の仕方は余りに大胆だと思った。一面からいえば、あまりに残酷だとも思った。廓《くるわ》の水に染みると、こうも冷たい心にもなるものかと、彼はそぞろに怖ろしくもなった。それから惹《ひ》いて次郎左衛門の恨みを買うことを怖ろしかった。彼は相変らず八橋を懐かしいものに思いながらも、以前のように足近くかよって行く気にはなれなかった。それと同時に、彼はもう少しまじめになって、女を頼らずに生きてゆく方法を考えなければならないと思い立った。
 それからいろいろに奔走して、この冬の初めから謡いの出稽古の口を見つけ出した
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