考えさせておくんなんし」と、彼女はともかくもそう言って置いた。
「急ぐこともあるまい。まあ考えて置いてくれ」と、栄之丞も言った。久し振りでこう差しむかいになって見ると、彼にもさすがに未練はあった。
 ひとには瑕《きず》のように見える細い眼、あまりに子供らしい下《しも》ぶくれの頬、それもこれも、栄之丞の眼には又となく可愛らしく映ったこともあった。その昔の懐かしい思いを今更のように誘い出されて、この若々しい顔の持ち主を人手に渡すのが彼は急に惜しくもなった。栄之丞は飲めもしない杯を手にして、八橋の白い横顔をうっとりと見つめていた。
「ぬしはこの頃なぜちっとも寄り付きなんせん。わたしというものに愛想がつきなんしたかえ」と、八橋の方でも男の顔を覗きながらまた訊《き》いた。
「愛想がつきたというじゃあないが、あんまり近寄るとお互いのためになるまいと思うからだ」
「なぜお互いのためになりんせんえ」
「身請けの相談などが始まろうという時に、私たちがしげしげ逢うのはよくない」
「嘘をつきなんし。その相談の始まらない遠い昔から、ちっとも寄り付かないじゃありいせんか。ぬしにはたんと恨みがおざんす」
 いっそ突き放してしまおうと思い切ってしまった男でも、さてこうして顔を見合せると八橋も十分に強いことは言えなかった。未練は栄之丞ばかりでない、彼女も軽率に起請を焼いてしまった自分の短気を咎めたくなった。
「久しくたよりを聞きなんせんが、妹御さんはお達者でおすかえ」
「お光は橋場の方へ奉公にやった」
「奉公に……。さぞ辛いこっておざんしょうに……。よく辛抱していなんすね」
 八橋とお光とは仲好しであった。彼女はわが身に引きくらべて、奉公にやられたお光の身の上に同情した。
「なに、奉公といっても楽なものだ」
 栄之丞は第二の相談を持ち出す機会を得たので、奉公早々にお光が災難に逢ったことを話した。それがために二十両の半金を償わなければならない事情も話した。
「どうかして都合してやらないと、わたしも義理が悪いし、お光も居づらいだろうと思っているのだが、どうもその十両の工面ができないので困っている」
 顔を陰らせて八橋も聴いていたが、金の話になって彼女は案外にたやすく受け合った。
「お光さんも可哀そうに……。さぞ苦労していなんしょう。ちょいとお待ちなんし」
 彼女は裳《すそ》を捌《さば》いてすっと起った
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