「そうか。それは丁度いい。兄がまいりましたと取次いでくれ」
「あの、旦那さまが……」と、お光は少し言い渋っているらしかった。
「旦那がどうした」
「わたくしに暇を出すようにと、お内儀さんに言っているようで……」
お光の声は陰って、その眼にはもういっぱい涙を溜めていた。
「なに、お前に暇を出す……」
栄之丞も赫《かっ》となった。妹に暇をくれるという以上は、やはり我々を疑っていると見える。奇怪至極のことである。いよいよ打っちゃっては置かれないと思った。
「それならば猶更のことだ。早く主人に逢わせてくれ」
十一
栄之丞は奥へ通されて、三河屋の主人に逢った。主人は四十以上の穏やからしい人物であった。栄之丞の話を聴いて彼は気の毒そうな顔をしていた。
「いや、それは御迷惑お察し申します。わたくしの方でも決して妹御《いもとご》に疑いをかけるの何のという訳ではございません。申せばこれも双方の災難で致し方がございませんから、どうか御心配のないように願います」
こう言われて見ると、栄之丞の方でも取ってかかりようがなかった。そのうちに女房も出て来て、同じく気の毒そうに言い訳をした。自分たちも決してお光を疑ってはいない、お光の正直なことは自分たちも知っている、たとい誰がなんと言おうとも必ず気にかけてくれるなと繰り返して言った。こうなると、栄之丞はいよいよ張合い抜けがした。
「妹もなにぶん不束者《ふつつかもの》でございますから、この末ともによろしくお願い申します」
お光が死ぬの生きるのという問題も案外にたやすく解決して栄之丞もまず安心した。それから主人夫婦と差しむかいで世間話などを二つ三つしているうちに、主人は言いにくそうにこんなことを言い出した。それはお光が追剥ぎに奪《と》られた二十両の損害の半額を償《つぐな》えというのであった。
災難とあきらめるという口の下から、こんなことを言い出すのは甚だ異《い》なように聞えるかも知れないが、自分の店の掟《おきて》として、すべての奉公人が金を落したり奪られたり、あるいは勘定を取り損じたりしたような場合には、その過怠《かたい》として本人または身許引受人から半金を償わせることになっている。勿論、それは主人の方へ取りあげてしまう訳ではない。ともかくも一旦あずかって置いて、その本人が無事に年季を勤めあげた場合に、いっさい取りまとめて戻
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