に、いかに美しく神々《こうごう》しく映ったかは言うまでもなかった。彼はまた次の夜すぐに二回《うら》を返した。その次の夜には三回目《なじみ》を付けた。三回目の朝には八橋が大門口《おおもんぐち》まで送って来た。三月ももう末で、仲の町の散る花は女の駒下駄の下に雪を敷いていた。次郎左衛門もその雪を踏んで、一緒に歩いた。
彼はほかの子分どもをひとまず国へ帰してしまった。治六だけを宿に残して、それからほとんど一夜も欠かさずに廓《くるわ》へかよった。彼は見返り柳の雨にほととぎすを聞いたこともあった。待合いの辻の宵にほたるを買ったこともあった。彼は三月の末から七月の初めへかけて百日ほども八橋に逢い通した。金がつづかないので、国から幾度も取り寄せた。
「旦那さま、盆がまいりますぞ。いい加減に戻らっしゃい」と、治六も呆れてたびたび催促したので、次郎左衛門もさすがに気が付いたらしく、盂蘭盆《うらぼん》まえに一旦帰ることになった。
帰って見ると、百日あまりの留守の間に子分どもの多くは散ってしまった。自分の縄張り内は大抵他人に踏み荒らされていた。いつもの次郎左衛門ならばとても堪忍する筈はなかった。彼は虎のように哮《たけ》って、自分の縄張りを荒らした相手に食ってかかるに相違なかった。彼は得意の剣術を役に立てて、相手と命の遣り取りをしたかも知れなかった。しかし彼の性質はこの春以来まったく変っていた。
彼が性格のいちじるしく変化したことは、佐野屋で一緒に起き臥《ふ》ししていた治六にもよく判っていた。虎はいつか猫に変って、彼のおそろしい爪も牙《きば》も見えなくなってしまった。彼は誰にも叱言《こごと》一ついわないようになった。彼は薄気味の悪いほどにおとなしくなった。その理由は治六にも判らなかったが、ともかくも吉原がよいを始めてから、主人の性質がこう変ったということだけは容易に想像された。
「まあ、まあ、打っちゃって置け」と、次郎左衛門は子分どもを却ってなだめていた。
自分の縄張りを踏み荒らされても、指をくわえて黙っている次郎左衛門のなまぬるい態度が子分どもの気に入らなかった。かれらは歯がゆく思った。親分を意気地なしと卑しんだ。折角踏みとどまっていた少数の子分もみんな失望して散った。さらでも孤立の次郎左衛門は、いよいよほんとうの一本立ちになってしまった。彼の影はいよいよ寂しくなった。
「いっそ、
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