気というのを幸いに、彼は日のあるうちに主人を連れて帰ろうと思ったのであるが、そんな浅薄《あさはか》なくわだては「馬鹿らしい」の一言に破壊された。
自分の相方の浮橋は茶屋の二階に来ているのであるが、彼はそんなことに係り合いのないようにぼんやりと考えていた。
主人は八橋にもう二百両やった。新造二人に十五両ずつやった。まだやらないが、茶屋の女房にも女中にもきっとやるに相違ない。まずあしたの朝日を拝むまでに、あわせて三百両は朝の霜のように消えてしまうものと思わなければならない。千両の三分の一はもうなくなる――こう思うと、治六は肉をそがれるように情けなかった。それでも、あしたの朝すぐに帰ればいい、もしまた未練らしくぐずぐずしていたら、きょう持って来た五百両はみんな飛んでしまう。おとなしくここまでは付いて来たものの、彼はもう主人の胸倉を掴んで引き摺って帰りたいようにもいらいら[#「いらいら」に傍点]して来た。
背中合せの松飾りはまだ見えなかったが、家々の籬《まがき》のうちには炉を切って、新造や禿《かむろ》が庭釜の火を焚《た》いていた。その焚火の煙りが夕暮れの寒い色を誘い出すように、籬を洩れて薄白く流れているのも、あわただしいようで暢《のび》やかな廓の師走らしい心持ちを見せていた。治六は煙りのゆくえを見るともなしに眺めていた。寒い風が彼の小鬢《こびん》を吹いた。
五
その頃の大音寺まえは人の家もまばらであった。枯れ田を渡る夜の風は茅《かや》屋根の軒を時どきにざらざら[#「ざらざら」に傍点]なでて通って、水谷《みずのや》の屋敷の大池では雁《がん》の声が寒そうにきこえた。
栄之丞が堀田原から帰った時には冬の日はもう暮れていた。妹のお光《みつ》の給仕で夕飯を食ってしまうと、高い空には青ざめた冷たい星が二つ三つ光って、ここらの武家屋敷も寺も百姓家も、みんな冬の夜の暗闇《くらやみ》の底に沈んでしまった。遠い百姓家に火の影がちらちら[#「ちらちら」に傍点]と揺らいで、餅を搗《つ》く音が微かに調子を取って響くほかには、ここらに春を待っている人もありそうにも思われない程に、ひっそりと静まり返っていた。栄之丞の兄妹《きょうだい》も春を待っている人ではなかった。
「今も言うような訳だが、どうだ、その家《うち》へ奉公に行って見ては……」と、栄之丞はうす暗い行燈の下にうつ向いてい
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