ぐるめに可愛がってやりたいと思っている位であった。
栄之丞のうしろ姿を見送って、次郎左衛門は駕籠の方へ引っ返すと、治六もいつの間にか駕籠を降りて、不安そうにこっちを窺っていた。
「旦那さま。今のは栄之丞でねえかね」
「むむ。丁度ここで逢ったのも不思議だ」
「わしがゆうべ、あんなことを言ったから、この往来なかで喧嘩でもおっ始めるのじゃあねえかと思って内々心配していたが、だいぶ仲がよさそうに別れたね」
「誰が喧嘩なんぞするものか、昔のおれとは違う」と、次郎左衛門は笑いながら駕籠に乗った。
四
仲の町の立花屋では、佐野のお大尽が不意に乗り込んで来たのに驚いた。亭主の長兵衛は留守であったが、女房のお藤がころげるように出て来て、すぐに二人を二階へ案内した。女中は兵庫屋へ報《しら》せに行った。
二階には手炙火鉢《てあぶり》が運ばれた。吸物椀や硯蓋《すずりぶた》のたぐいも運び出された。冬の西日が窓に明るいので女房は屏風を立て廻してくれた。次郎左衛門のうしろの床の間には、細い軸物《じくもの》の下に水仙の一輪挿しが据えてあった。二人は女房や女中の酌で酒を飲んでいた。
そのうちに女房はこんなことを言った。
「八橋さんの花魁《おいらん》は、大尽がお越しになったのでさぞお喜びでござりましょう。そう申してはいかがですが、花魁もことしの暮れはちと手詰まりの御様子でしてね」
「可哀そうに……。たんと金がいるのかね」と、次郎左衛門が訊いた。
「さあ、どんなものでござりましょうか。わたくし共も詳しいことは存じませんが、なんでも浮橋《うきはし》さんからそんな話がござりました」
浮橋というのは八橋の振袖新造《ふりそでしんぞう》で、治六の相方であった。
「そうか。おい、治六。貴様どうかしてやれよ」と、次郎左衛門は笑った。
治六はにっこりともしないで、黙って酒を飲んでいた。
そうでなくても、主人は金を遣いたがっているところへ、花魁が手詰まりだなどという噂を聞かされては堪まったものではない。治六はもう逃げて帰りたくなった。
女中の迎いを受けて浮橋がさきへ来た。女房と女中が階下《した》へ立ったあとで、浮橋は花魁がこの年の暮れに手詰まりの訳を話した。それも五十両ばかりあればいいのだが、さてその工面《くめん》が付かないのは情けないと言った。次郎左衛門はたったそれだけでいいのかと笑った。
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