小さい凧《たこ》の影が二つ三つかかっていた。堤したの田川の水も春の日に輝いて、小鮒《こぶな》をすくっている子供の網までがきらきらと光って見えた。稽古のために空駕籠を担いで、長い堤を往ったり来たりしている駕籠屋のひたいにも、煙りの出そうな汗が浮いていた。
「寒いようでも、もう春だ」と、栄之丞もふと思った。
そう思いながらも、彼は春らしいのびやかな気分にはとてもなれなかった。懐中《ふところ》にしている十両の金が馬鹿に重いように思われてならなかった。この十両を手切れがわりに貰ったのかと思うと、彼は言うに忍びない屈辱を蒙ったようにも感じた。くやし涙がおのずと湧いて来た。
闇撃ち――飛んでもないことを言うと、彼は次郎左衛門の無法におどろいた。八橋と言い合わせて、おれと手を切るためにわざとあんな無法な言いがかりをしたのではないかとも疑った。こうと知ったら、きょうは廓へ来るのではなかったものをと、彼は今更のように後悔した。
自分の方から遠ざかろうとしていながら、女の不実を責めるのは手前勝手かも知れないが、八橋が起請を灰にしたということは、どう考えても腹立たしかった。自分が今まで欺かれていたようにくやしく思われた。その女の手からなぜこの金を受取って来たのであろう。なぜ女のひたいに叩き付けて来なかったのであろうと、栄之丞は自分の弱い心を自分で罵り恥ずかしめたかった。
「お光も可哀そうだ」
彼はまた思い返した。
意気地《いくじ》なしと言われても、弱虫とあざけられても仕方がない。ともかくも目的の通りに金の才覚ができた以上は、早くこれを橋場へ届けて妹に安心させてやろうと思った。妹もおれのためには随分苦労している。せめてこういう時には兄甲斐《あにがい》のあるようにしてやらなければならないと、彼は妹が可愛さに一時の不平を抑えて、すぐに橋場の奉公さきへ急いで行った。
十四
三月になって絹糸のような雨が二、三日ふりつづいた。馬喰町の佐野屋の二階から見おろすと、隣りの狭い庭に一本の桃の花が真っ紅《か》に濡れて見えた。どこかで稽古三味線《けいこじゃみせん》の音が沈んできこえた。なま暖かいひと間の空気に倦《う》んで、次郎左衛門は障子を少しあけていたが、やがて又ぴっしゃりと閉め切って古びた手あぶりの前に坐って、小さい鉄瓶の口から軽く噴く湯煙りのゆくえを見つめていた。
座敷の片隅
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