ってけえれ。ただひとこと言って聞かして置くが、八橋はもう貴様の起請を灰にしてしまったぞ」
今度は栄之丞の方が蒼くなった。膝の上についている彼の指さきはぶるぶると顫《ふる》えた。いかに遠ざかろうとしている女の前でも、自分の競争者の口からこの残酷な宣告を受けては、栄之丞の素直な心にも相当の弾力をもたなければならなかった。彼は正面の敵から眼をそらして、斜《はす》に女の方を見かえると、八橋は俯向いてなんにも言わなかった。頭を垂れているので、その顔の色は読めなかった。
それでも栄之丞は素直であった。素直というよりもむしろ男らしいというのかも知れないが、もうこの上は、何を言うのも無駄であると彼は考えた。野獣の怒ったような次郎左衛門を相手にして、いつまでとやこうと言い争っても果てしがない。ここで女の薄情を責めても始まらない。こういう不快な、そうして危険な場所からは、ちっとも早く立ち退いてしまった方が無事であると考えた。
むこうで帰れというのをしおに、栄之丞はおとなしく挨拶して起ちかかると、次郎左衛門は紙入れから一両を十枚出した。
「おい。さっき聴いていりゃあ、十両の金が要るとかいって、八橋に無心を言っていたようだったね。さあ、十両はおれがやる。その代りに八橋の起請を置いて行くがいい」
ここで持っていないと言うのは余り卑怯だと思って、栄之丞は掛守《かけまもり》から女の起請を取り出した。彼はせめてもの腹癒せに、次郎左衛門の眼の前でずたずた[#「ずたずた」に傍点]に引き裂いて見せた。
芝居のようなこの場は、これで終った。
栄之丞は黙って起ち上がると、次郎左衛門はうしろから声をかけた。
「おい、栄之丞さん。この金を持って行かねえのか」
聞かない振りをして彼は廊下へ出た。次の間にいた浮橋も気の毒なような、困った顔をして、これも黙って送って来た。栄之丞が二階の階子《はしご》を降りようとする時に、あとから八橋がそっと追って来た。
「みんなあとで判ることでありんす」
彼女は紙につんだ十両を男の手に掴ませた。いっそ叩き返そうと思っても、その手さきは女にしっかり握られているので、栄之丞はどうすることも出来なかった。彼はくすぐったいような心持ちで、とうとうその金をふところに収めて出た。
堤《どて》へあがると、うすら寒い風はいつしか凪《な》いで、紫がかった箕輪田圃《みのわたんぼ》の空に
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