次郎は声をあげて笑いたくなった。
「それにしても、お蝶は可哀そうだ。」
 世に乱心者ほど不幸な人間はあるまい。ましてそれが自分の屋敷の奉公人――今では単なる奉公人ではない関係になっている――お島の妹である。それを思うと、又次郎はふたたび暗い心持になった。彼はむやみに笑ってはいられなくなった。お蝶が乱心していることを、その両親の角蔵やお豊が知っているのであろうか。知っているならば、迂濶《うかつ》にひとり歩きをさせる筈もあるまい。あるいは両親がわたし達の宿へ挨拶にきた留守のあいだに抜け出したのか。
「なにしろ、たずねてみよう。」
 お蝶が乱心者と決まった以上、いずれにしても相当の注意をあたえて置く必要があると思ったので、又次郎は草鞋の爪先《つまさき》をかえて、海ばたの漁師町へむかった。けさから一旦衰えかかった木枯しがまたはげしく吹きおろしてきて、馬の鬣髪《たてがみ》のような白い浪が青空の下に大きく跳《おど》り狂っていた。尾白の大鷲はこの風に乗って来るのではあるまいかと、又次郎はあるきながら幾たびか空を仰いだ。
「角蔵はいるか。」
 表から声をかけると、粗朶《そだ》の垣のなかで何か張物をして
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