姿を見せないからである。山々の木の葉がほんとうに落ちはじめて、鷲がいよいよその巣を離れて遠征をこころみる十月の頃になると、古参の腕利きが初めて出張《でば》るのである。
 弥太郎も用意して出張《でばり》の日を待っているのであった。

     二

「いかに和田でも、羽田の尾白《おじろ》は仕留められまい。――その噂《うわさ》を聞くたびに、わたしは冷々《ひやひや》します。」
 お松は溜息まじりで言った。弥太郎の妻のお松と下男の久助は大師堂参詣をすませて、桜の木《こ》かげに待たせてある親子ふたりを連れて門前へ出ると、そこには大師詣での客を迎える休み茶屋が軒をならべて往来の人々を呼んでいた。最初は川崎の宿《しゅく》まで出て、万年屋で昼食《ちゅうじき》という予定であったが、思いがけない道連れが出来たので、宿まで戻るまでもなく、お松はかれらを案内して、門前の休み茶屋にはいることにしたのである。
 休み茶屋といっても、店をゆき抜けると奥には座敷の設けがあって、ひと通りの昼食を済ませることも出来るようになっていた。久助は家来であり、かつは男であるから、遠慮して縁側に腰をかけていたが、親子ふたりづれの女は勧められるままに怖々《おずおず》と座敷へあがって、やはり縁側に近いところに座を占めていた。
 四人は女中が運んで来た茶をのんで、軽い食事を注文した。その食事の膳が持出されるまでに、お松は小声できょうの参詣の事情を話し出したのである。
「尾白の鷲のことは、わたくしも聞いております。」と、娘の母もささやくように言った。「なんでもその鷲は去年も一昨年《おととし》も、羽田の沖からお江戸の方角へ飛んで参りましたそうでございます。そばへ寄って確かに見た者もございませんが、羽をひろげると八|尺《しゃく》以上はあるだろうという噂で……。それを二度ながら撃ち損じましたのは、まことに残念に存じます。」
「まったく残念だ。」と、久助は横合いから啄《くち》をいれた。「その尾白の奴めが……。いつでも旦那さまの御当番のときには姿を見せねえので困る。なにしろ年数を経た大物だから、並大抵の者にゃあ仕留められる筈《はず》がねえ。ことしこそは見付け次第にきっと仕留めてみせると、旦那さまも手ぐすね引いて待っていらっしゃるのだから、まあ大丈夫だろうよ。いや、きっと大丈夫に相違ねえから、おめえ達も安心しているがいいよ。」
「いくらお前が受合っても、相手は空飛ぶ鳥……。」と、お松は再び不安らしい溜息をついた。
「今もいう通り、組内でもいろいろの噂をしているので、もし仕損じるようなことがあったら、人に顔向けも出来ないので……。」
 尾白の鷲は上総の山から海を越えて来るともいい、あるいは甲州の方角から来るともいう。いずれにしても、これほどの大きい鳥はかつて見たことがないと、羽田附近の者も不思議がっている位である。おととしは十月の二十日の暮れがたに姿をあらわしたのを、鉄砲方の岩下重兵衛が撃ち損じた。去年は十一月の八日の真昼に姿をあらわしたのを、鉄砲方の深谷源七が撃ち損じた。それから二時《ふたとき》ほどの後に、鷲はふたたび海岸近く舞い下がって来たという注進《ちゅうしん》を聞いて、鉄砲方の矢崎伝蔵が直ぐに駈けつけたが、弾《たま》は左の羽を掠《かす》めただけで、これも撃ち洩らしてしまった。
 ことしの八月十五夜、組頭《くみがしら》の屋敷で月見の宴を開いたときに、席上でかの尾白の鷲の噂が出て、おととし撃ち損じた岩下も、去年撃ち損じた深谷と矢崎も、いささか面目をうしなった形で、しきりに残念がっていると、その席に列《つら》なっていた和田弥太郎は、なんと思ったか声を立てて呵々《からから》と笑った。彼はただ笑ったばかりで別になんの説明も加えなかったが、場合が場合であるから、その笑い声は一座の興《きょう》をさました。
 岩下ら三人の未熟を笑ったのか、あるいは我れならばきっと仕留めてみせるという自信の笑いか、いずれその一つとは察せられたが、弥太郎は組内の古参といい、鉄砲にかけても老練の巧者であることを諸人もよく知っているので、さすがに正面から彼を詰問する者もなかったが、その不快が陰口《かげぐち》となって表われた。それは今もお松が言ったように――いかに和田でも、羽田の尾白は仕留められまい。もし仕損じたら笑い返してやれ――。
 弥太郎は武士|気質《かたぎ》の強い、正直|律義《りちぎ》の人物であったが、酒の上がすこしよくないので、酔うと往々に喧嘩口論をする。みんなもその癖を知っているのではあるが、その夜の弥太郎の笑い声はどうも気に食わなかったのである。弥太郎も醒めてから後悔したが、今さら仕様もない。この上は問題の尾白を見つけ次第に、自分の筒先《つつさき》で撃ち留めるよりほかはなかった。自分の腕ならば、おそらく仕損じはあ
前へ 次へ
全12ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング