るまいという自信もあった。
しかしその家族らの胸の奥には一種の不安が忍んでいた。かれらは主人の腕前を信じていながらも、それが稀有《けう》の猛鳥であると聞くからは、どんな仕損じがないとはいえない。幸か不幸か、弥太郎は去年もおととしも年番ではなかったので、抜かぬ太刀の功名を誇っていられるが、ことしは年番で出張《でば》って、もし仕損じたというあかつきには、待ちかまえている人々が手を叩いて笑うであろう。実際、諸人の前で大口をあいて笑った以上、今度は自分が笑われても致し方がないのである。それを思うと、妻のお松も、せがれの又次郎も、家の面目、世間の手前、容易ならぬ大事であるように考えられた。薄々その事情を洩れ聞いている女中のお島もおみよも、同じく落着いてはいられなくなった。取分けてお島は気を痛めて、近所の白山|権現《ごんげん》へ夜まいりを始めた。
お松の主従が今日この大師堂で出逢ったのは、お島の母と妹である。お島は羽田村の漁師角蔵のむすめで、主人の弥太郎が羽田に出張《でば》る関係から、双方が自然知合いになって、お島は江戸の屋敷へ奉公することになったのである。父は角蔵、母はお豊、妹はお蝶、揃いも揃って正直者であった。その正直者の親子のところへ、江戸屋敷のお島から手紙が来て、ことしの鷲撃ちは旦那さまのお年番で、しかもお身の一大事であるというようなことを内々で知らせてよこしたので、親子三人もおどろいた。
さりとて、かれらの力でどうなる事でもないので、この上は神ほとけの力を頼むよりほかはない。母のお豊と妹のお蝶が連れだって、日ごろ信仰する川崎大師へ参詣に出て来たのも、それがためであった。お松と久助が遠い江戸からここへ参詣に来たのも、やはりそれがためであった。同じ縁日に、おなじ願いごとで参詣に来た親子と主従とがここで出逢ったのは、偶然に似て偶然でもなかった。
こうして落合って、話し合っていると、お松に溜息の出るのも無理はなかった。お豊はもう涙ぐんでいた。そうして、あたりを見まわしながら小声でこんなことを言い出した。
「今も久助さんの仰しゃる通り、旦那さまのお腕前では万に一つもお仕損じはないこととは存じますが……。それでも何かのはずみで、もしもの事でもございましたら、旦那さまは……。」
言いかけて、お豊は声を立てて泣き出した。娘のお島の手紙によると、もしその尾白に出逢って仕損じるようなことがあれば、旦那さまはふだんの御気性として、あるいは御切腹でもなさるかも知れないというのである。御新造さまの前で、まさかにそれを言い出すわけにもいかなかったが、その不安が胸を衝《つ》いて来て、お豊はとうとう泣き出したのである。お豊に泣かれてはお松の眼もうるんだ。お蝶もすすり泣きを始めた。
切腹――その不安は言わず語らずのあいだに、すべての人の魂をおびやかしているのである。そのなかで、唯ひとり冷《ひや》やかに構えているのは久助で、彼は気の弱い女たちを歯がゆそうに眺めながら、しずかに煙草をのんでいたが、もう堪《た》まらなくなったように笑い出した。
「おい、おい。おっかあや妹は何を泣くんだ。ことしは内の旦那さまがあの尾白を一発で撃ち落して、組じゅうの奴等に鼻を明かしてやるんだ。おっかあ、おめえ達もその時にゃ赤の飯《まんま》でも炊いて祝いねえ。鯛は商売物だから、世話はねえ。」
主人の弥太郎は笑うまじき所で笑った為に、こうした不安の種を播《ま》いたのである。主《しゅう》を見習うわけでもあるまいが、その家来の彼もまた笑うまじき場合にげらげら笑っているのである。人のいいお豊も少しく腹立たしくなったらしく、眼をふきながら向き直った。
「わたしらはなんにも判らない人間ですから、こういう時には人一倍に心配いたします。そうして、お前さんは旦那さまのお供をしなさるのかえ。」
「知れたことさ。」と、久助はまた笑った。「おっかあ、おめえは浅草の観音さまへ行ったことがあるかえ。」
いよいよ馬鹿にされているような気がするので、お豊もあざ笑った。
「なんぼ私らのような田舎者でも、浅草の観音さまぐらいは知っていますのさ。」
「そんなら観音堂の額《がく》を見たろう。あのなかに源三位《げんざんみ》頼政の鵺《ぬえ》退治がある。頼政が鵺を射て落すと、家来の猪早太《いのはやた》が刀をぬいて刺し透すのだ。な、判ったか。旦那さまが頼政で、この久助が猪早太という役廻りだ。鷲撃ちの時にゃあ、おれもこんな犬おどしの木刀を差しちゃあ行かねえ。本身の脇指をぶっ込んで出かけるんだから、そう思ってくれ。あははははは。」
彼はそり返って又笑った。
三
十月|朔日《ついたち》の明け六つに、和田弥太郎は身支度して白山前町の屋敷を出た。息子の又次郎と下男の久助もそのあとについて行った。又次郎はことし二十歳
前へ
次へ
全12ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング