《はたち》であるが、父の弥太郎が立派にお役を勤めているので、彼は今もまだ無役の部屋|住《ず》みである。しかも又次郎にかぎらず、たとい部屋住みでも十五歳以上の者は見習いとして、その父や兄に随行することを黙許されていた。
見習いというのであるから、役向きの人々の働きを見物しているだけで、自分が鉄砲を撃ち放すことを許されないのである。殊にその時代の鉄砲は頗《すこぶ》る高価で、一挺十五両|乃至《ないし》二十両というのであるから、いかに鉄砲組でも当主は格別、部屋住みの者などは本鉄砲を持っていないのが例であった。又次郎は幸いにその鉄砲を持っていたので、菰《こも》づつみにして携えて行くことにした。
きょうは朔日でもあり、殊に今年は鷲撃ちの年番にあたって出張るのである。いわば戦場へ出陣の朝も同様であるので、和田の屋敷では赤の飯を炊いて、主人の膳には頭《かしら》つきの魚が添えてあった。旧暦の十月であるから、この頃の朝は寒い。ゆうべは木枯しが吹きつづけたので、けさの庭には霜が白かった。
又次郎も身支度をして部屋を出ると、女中のお島が忍ぶように近寄って来た。
「若旦那さま、どうぞお気をお付け遊ばして……。」
「むむ。留守をたのむぞ。」
お島はまだ何か言いたいらしかった。又次郎もすこし躊躇《ちゅうちょ》していると、それを叱るような父の声が玄関からきこえた。
「又次郎。なにをしている。早く来い。」
「唯今……。」と、又次郎は若い女中を押しのけるようにして玄関へ出てゆくと、父はもう草鞋を穿《は》いていた。
木枯しは暁《あ》け方から止んでいたが、針を含んでいるような朝の空気は身にしみて、又次郎は一種の武者ぶるいを感じた。どんな覚悟を持っているか知らないが、弥太郎は始終冷静の態度で、口もとには軽い笑みを含んでいるようにも見えた。それにもまして、久助は勇んでいた。彼はあたかも主人の功名《こうみょう》を予覚しているように、大事のお鉄砲を肩にして大股に歩いて行った。お松もお島もおみよも門前まで出て見送った。
羽田村の百姓富右衛門の家が鉄砲方の詰所になっているので、弥太郎はまずそこに草鞋をぬいで、先月以来ここに詰めている先番の人々に挨拶した。
「うけたまわれば、鳥は一向に姿を見せぬそうでござるが……。」
「当年は時候があたたかいせいか、九月中は一羽も姿を見ませんでした。しかし二、三日このかた、急に冬らしくなって参りましたから、おいおいに寄って来ることと思われます。」と、先番の人々は答えた。
そのなかには弥太郎の仕損じを笑ってやろうと待ちかまえている者もあることを、又次郎も久助も知っていた。ここで一応の挨拶を終って、弥太郎は自分の座敷へ案内された。新参の若い与力や同心らは広い座敷にごたごたと合宿しているが、弥太郎は特に離れ座敷へ通されたのである。以前は当主の父の隠居所で、今は空家《あきや》になっているのを、鷲撃ちの時節には手入れや掃除をして、出張る役人に寝泊りさせるのを例としていた。
弥太郎は先年もこの隠居所に通されたことがあるので、家内の勝手をよく心得ていた。東南へ廻り縁になっている八畳の座敷のほかに、六畳と三畳の二間が付いているので、座敷には弥太郎、六畳には又次郎、三畳には久助、皆それぞれの塒《ねぐら》を定めて、弥太郎の鉄砲は床《とこ》の間《ま》に飾った。又次郎の鉄砲は戸棚にしまいこんだ。それらが片付いて、まずひと息つくと、どこやらで鉄砲の音がきこえた。
「あ。」と、又次郎と久助は同時に叫んだ。
「見て来い。」と、弥太郎は奥から声をかけた。
久助はすぐに駈けだして母屋《おもや》へ行ったが、やがて引っ返してきて、一羽の鷲のすがたが沖の空に遠くみえたので、持場の者が筒を向けた。しかもあまりに急いで、弾《たま》の届くところまで近寄らないうちに火蓋《ひぶた》を切ったので、鳥はそのまま飛び去ってしまった。ただしそれは尾白などというものではなく、鷹に少し大きいくらいの仔鷲《こわし》であったと報告した。
「未熟者はとかくに慌ててならぬ。戦場でもそうだが、敵を手もとまで引寄せて撃つ工夫が肝腎だぞ。」と、弥太郎はわが子に教えた。
その夜はまた木枯しが吹き出して、海の音がかなりに強かったので、又次郎はおちおち眠られなかった。あくる朝は晴れているので、又次郎はまず起きた。つづいて久助、弥太郎も起きた。あさ飯を食って、身を固めて、三人が草鞋の緒を結んでいるところへ、母屋から作男《さくおとこ》が何者をか案内してきた。
「旦那さま方にお目にかかりたいと申して参りましたが……。」
「誰が来た。」と、久助は訊いた。
「浜におります漁師の角蔵でござります。」
「むむ、角蔵か。」
「女房と二人づれで参りました。」
なんと返事をしたものかと、久助は無言で主人の顔色を窺うと、弥太郎
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