みになりませんか。」
「これからだ。おめえ達はもう済んだのか。」
「はい。」
「では、ここに少し待っていておくれでないか。わたし達は御参詣を済ませて来ますから。」
 と、女は言った。
「はい、はい。どうぞごゆっくりと御参詣遊ばして……。」
 親子二人をここに残して、御新造と下男はふたたび石だたみの道を歩んで行った。人に馴れている鳩の群れはいつまでも飛び去らずに、この親子のまえに餌をひろっていた。
 この物語をなめらかに進行させる必要上、ここで登場人物四人の身もとを簡単に説明しておく必要がある。御新造と呼ばれる女は、江戸の御鉄砲方《おてっぽうかた》井上左太夫の組下《くみした》の与力《よりき》、和田弥太郎の妻のお松で、和田の屋敷は小石川の白山前町《はくさんまえまち》にあった。弥太郎は二百俵取りで、夫婦のあいだにお藤と又次郎という子供を持っているが、長女のお藤はことし二十二歳で、四年前から他家に縁付いているので、わが家にあるのは相続人の又次郎だけである。二百俵取りでは、もとより裕福という身分でもなかったが、和田の家は代々こころがけのいい主人がつづいたので、その勝手元はあまり逼迫《ひっぱく》していなかった。家内は夫婦と忰《せがれ》と、ほかに中間の久助《きゅうすけ》、女中のお島、おみよの六人で、まずは身分相当の生活に不足はなかった。弥太郎は四十六歳、鉄砲を取っては組内でも老巧の達人として知られていた。
 こう言うと、まことに申分のないようであるが、その和田の家へこの頃ひとつの苦労が起っていた。それは羽田の鷲《わし》撃ちの年番《ねんばん》に当ったことである。
 羽田の鷲撃ち――毎年の秋から冬にかけて、遠くは奥州、あるいは信州、甲州、近くは武州、相州または向う地の房総の山々から大きい鷲が江戸附近へ舞いあつまって来る。鷲は猛鳥であるから、他の鳥類をつかむのは勿論、時には人間にも害をなすことがある。子供が鷲にさらわれたなどというと、現代の人々は一種の作り話のようにも考えているらしいが、昔に限らず、明治の時代になっても、高山に近い土地では子供が大鷲につかまれたという実例がしばしば伝えられている。まして江戸時代には大鷲が所々を飛行していたらしい。俗に天狗に掴《つか》まれたなどというのは、多くは鷲の仕業で奥州岩木山の鷲が薩摩の少年をさらって行ったというような、長距離飛行の記録もある。
 そこで、地勢の関係かどうか知らないが、江戸へ飛んでくる鷲の類は、深川|洲崎《すざき》の方面、または大森羽田の方面に多く、おそらく安房《あわ》上総《かずさ》の山々から海を渡って来るのであろうと伝えられていた。たとい人間をつかむという例は比較的に少ないにしても、人家の飼鳥《かいどり》や野生の鳥類をつかみ去ることは珍らしくない。それらの害を払うためと、もう一つには御鷹場《おたかば》あらしを防ぐために、幕府の命令によって鷲撃ちが行なわれることになっていた。
 将軍家の例として、毎年の冬から春にかけて鷹狩が催されるのであるが、その鷹場付近に大鷲が徘徊《はいかい》して、種々の野鳥をつかみ去られては、折角の鷹狩の獲物《えもの》を失うばかりか、無事の野鳥も四方へ逃げ散るおそれがあるので、前以ってかれらを捕獲し、あるいは駆逐するのである。この時代のことであるから鷲撃ちの目的は前者よりもむしろ後者にあって、御鷹場あらしを防ぐということが第一義であったかも知れない。また一説によれば、それによって鉄砲の実地練習を試みるのであるともいう。いずれにしても、秋から冬にかけて、鉄砲方の面々は年々交代で羽田または洲崎の方面に出張し、鷲の飛んで来るのを待ち受けて、強薬《つよぐすり》で撃ち落すのである。
 飛行機などのなかった時代の武士にとっては、この鷲撃ちの役目は敵の飛行機を待つと同様で、与力一騎に同心四人が附添い、それがひと組となって、鉄砲はもちろん遠眼鏡《とおめがね》をも用意し、昼も夜も油断なく警戒しているのである。その警戒の方法は時代によって多少の相違があったらしいが、ともかくも普通の獣狩《けものがり》とは違って、相手が飛行自在の猛鳥であるから、ぎょうぎょうしく立ち騒いで、かれらをおどろかすのは禁物である。かれらが油断して近寄るところを待受けて、ただ一発に撃ち落さなけれはならない。ついては、その本陣の詰所を土地の庄屋または大百姓《おおびゃくしょう》の家に置き、当番の組々がひそかにめいめいの持場《もちば》を固めることになっていた。官命とはいいながら、何分にも殺生《せっしょう》の仕事であるから、寺院を詰所に宛てるのを遠慮するのが例であった。
 ことしも九月からの鷲撃ちが始められた。和田弥太郎は年番にあたったが、古参であるからまだ出ない。最初の九月は未熟の新参者が勤めることになっているのは、めったに鷲が
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