ようなことがあれば、旦那さまはふだんの御気性として、あるいは御切腹でもなさるかも知れないというのである。御新造さまの前で、まさかにそれを言い出すわけにもいかなかったが、その不安が胸を衝《つ》いて来て、お豊はとうとう泣き出したのである。お豊に泣かれてはお松の眼もうるんだ。お蝶もすすり泣きを始めた。
 切腹――その不安は言わず語らずのあいだに、すべての人の魂をおびやかしているのである。そのなかで、唯ひとり冷《ひや》やかに構えているのは久助で、彼は気の弱い女たちを歯がゆそうに眺めながら、しずかに煙草をのんでいたが、もう堪《た》まらなくなったように笑い出した。
「おい、おい。おっかあや妹は何を泣くんだ。ことしは内の旦那さまがあの尾白を一発で撃ち落して、組じゅうの奴等に鼻を明かしてやるんだ。おっかあ、おめえ達もその時にゃ赤の飯《まんま》でも炊いて祝いねえ。鯛は商売物だから、世話はねえ。」
 主人の弥太郎は笑うまじき所で笑った為に、こうした不安の種を播《ま》いたのである。主《しゅう》を見習うわけでもあるまいが、その家来の彼もまた笑うまじき場合にげらげら笑っているのである。人のいいお豊も少しく腹立たしくなったらしく、眼をふきながら向き直った。
「わたしらはなんにも判らない人間ですから、こういう時には人一倍に心配いたします。そうして、お前さんは旦那さまのお供をしなさるのかえ。」
「知れたことさ。」と、久助はまた笑った。「おっかあ、おめえは浅草の観音さまへ行ったことがあるかえ。」
 いよいよ馬鹿にされているような気がするので、お豊もあざ笑った。
「なんぼ私らのような田舎者でも、浅草の観音さまぐらいは知っていますのさ。」
「そんなら観音堂の額《がく》を見たろう。あのなかに源三位《げんざんみ》頼政の鵺《ぬえ》退治がある。頼政が鵺を射て落すと、家来の猪早太《いのはやた》が刀をぬいて刺し透すのだ。な、判ったか。旦那さまが頼政で、この久助が猪早太という役廻りだ。鷲撃ちの時にゃあ、おれもこんな犬おどしの木刀を差しちゃあ行かねえ。本身の脇指をぶっ込んで出かけるんだから、そう思ってくれ。あははははは。」
 彼はそり返って又笑った。

     三

 十月|朔日《ついたち》の明け六つに、和田弥太郎は身支度して白山前町の屋敷を出た。息子の又次郎と下男の久助もそのあとについて行った。又次郎はことし二十歳
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